2007年02月01日

●青柳いづみこをご存知ですか(EJ第1285号)

 青柳いづみこ――こういう名前のピアニストをご存知でしょう
か。このピアニストは少し変わっていて、随筆や小説――それも
ミステリーを執筆し、それにあわせてCDも同時出版するという
日本では今までにないタイプのピアニストなのです。
 といっても、有名なピアニストがエッセイ集を出すということ
は昨今そう珍しいことではないと思います。著名なピアニストが
本を出せば、名前が通っているだけにそれなりに売れる――そう
いう思惑が出版社にあるからです。
 しかし、青柳いづみこの場合、それとはかなり違うのです。文
章を操れる演奏家というレベルをはるかに超えており、明らかに
文才がある――そういって差し支えないと思うのです。
 青柳いづみこの執筆したミステリー・エッセイに『ショパンに
飽きたら、ミステリー』(創元ライブラリー)というのがありま
す。ピアニストのエッセイが創元ライブラリーから出るというだ
けでも凄いことだと思います。そのほんの一節をご紹介します。
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  「探偵小説というのは、人を殺したりして、なかなか面白い
 ものである」とおっしゃったのは、たしか、どくとる・マンボ
 ウこと、北杜夫先生である。私も、この意見に賛成だ。
  いったいなにが究極といって、人があっさり何人も殺されて
 しまう探偵小説ほどの究極も、そうあるまい。これが普通の小
 説なら、人なんか一人でも殺すまでには、主人公の心理葛藤か
 ら複雑な人間関係から、なにからなにまで描写しなくてはなら
 ず、本当に殺せる前に小説が終わってしまいそうだ。なにしろ
 ドストエフスキーの『罪と罰』だって、たった一人老婆を殺し
 たからって、大さわぎなのだから・・・。
  探偵小説のいいところは、人が殺されるというような、普通
 の小説ではなかなか設定しにくい異常な状況が、はじめから読
 者によって容認されていることである」。(青柳いづみこ著、
 『ショパンに飽きたら、ミステリー』――創元ライブラリー
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 どうでしょう。見事なものです。面白いし結構読ませる――こ
れだけの文章は、なかなか書けるものではないです。青柳いづみ
こをこのように紹介すると、それじゃ肝心の音楽――ピアノの方
はどうなの?ということになると思います。
 実はこのピアニスト――今年でデビュー24年目を迎えるベテ
ランなのです。実は私、彼女の実演を聴いたことはないのですが
CDは全部持っています。といっても、全部で4枚ではあります
が・・。しかし、本は8冊出版していますので、ピアニストとい
うよりも、「ピアノが弾ける作家」というべきかも知れません。
 驚くべきことは、その4枚のCDが、ことごとく『レコード芸
術』の特選盤になっていることです。といっても、これはレコ芸
のことを良く知らない人にとってはきっと「驚くべきこと」には
ならないと思うので説明しますが、日本人で自分の出したCDを
レコ芸の特選盤にするということは、どうしてなかなかできるこ
とではないのです。
 とにかくこの『レコード芸術』という雑誌の「新譜月評」は、
私はおよそ50年間にわたって読んでいるのですが、日本人の演
奏家に関しては、ほとんどイジワルと思えるほど、非常に厳しい
評価をするので有名なのです。最初のCDで「準推薦」ならバン
ザイものなのです。それが全部特選盤――とても考えられないこ
となのです。
 どちらかというと、ドビュッシーもラヴェルもあまり好きでな
い私が青柳のCDを購入したのは、出すCDがすべて特選盤とい
う驚くべき実績によるものなのです。聴いた結果は、あまり好き
でなかったドビュッシーとラヴェルが好きになるほどの演奏とい
えばわかっていただけると思います。特選盤だけのことはある見
事な奥の深い演奏なのです。
 ところで、彼女は、東京芸術大学在学中にドビュッシーの研究
を行い、大学院で修士論文をまとめ上げているさいに文筆への意
欲に目覚めたというのです。そして、博士課程が設立されたばか
りの芸大に入り直し、奨学金を得てフランスに留学して研究を重
ね、1989年に「ドビュッシーと世紀末の美学」によってフラ
ンス音楽の分野では、はじめての学術博士号を取得しているので
す。のちにこの論文は、一般人がわかるように書き直され、次の
本となって出版されております。
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 青柳いづみこ著
 『ドビュッシー/想念のエクトプラズム』
                 東京書籍出版株式会社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 読んだわけではないのですが、解説によるとこの本には次のよ
うなことが書かれているそうです。
 ドビュッシーといえば、印象派の音楽家であるというのが常識
化されています。青柳は、従来のこのドビュッシー観に疑問を投
げかけています。ドビュッシーの音楽には、世紀末退廃芸術(デ
カダンス)とのかかわりが色濃く反映されている――という新説
を立て、よどみのないリズミカルな語り口で、一般の読者にもわ
かりやすくそれを立証しているのです。
 ところで、私がなぜ青柳いづみこをEJのテーマとして取り上
げたかですが、作家ピアニストといわれる青柳が、2001年に
水に関わる作品をピックアップしたCD『水の音楽』と、同名の
本を同時に出版し、私がそのCDを聴き、その本を読んでいたく
感銘を受けたからなのです。
 絵画と音楽や映像と音楽という2つの媒体によるコラボレーシ
ョンは今までにいくつもありましたが、演奏と文章による「水の
音楽」の表現は今までにない新しい試みであり、高く評価される
べきであると感じたからです。
 百人一首の世界をひとまず離れて、青柳いづみこという作家ピ
アニストの音楽論――明日からはじめます。
                −− [青柳いづみこ/01]

青柳いづみこ/水の音楽.jpg
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2007年02月02日

●オンディーヌは水の精霊である(EJ第1286号)

 青柳いづみこの本『水の音楽』には、「オンディーヌとメリザ
ンド」という副題がついています。この副題によってもわかるよ
うに、彼女はこの本で、水に加えて水に関わる2人の女性/オン
ディーヌとメリザンド――これらの女性はいずれも水の精である
――に焦点を当てて、女性の作家ピアニストならではの独創的ア
プローチによって『水の音楽』を分析しているのです。
 そもそもこの本は、フランスの地方の国立音楽院のピアノ科に
留学した青柳いづみこと指導教官との対話からはじまるのです。
ちなみに、フランスの地方の国立音楽院のピアノ科というところ
は、生徒はみんな12〜15歳の子供ばかりだそうです。
 そこに日本の音大の大学院を卒業した学生が留学するのですか
ら、ちょうど中学校に大人が中途入学するようなものです。そう
いう状況で、ある日のクラス・レッスンで青柳は、先生からモー
リス・ラヴェルのピアノのための組曲『夜のガスパール』の第1
曲「オンディーヌ」を弾くように指示されるのです。
 ところが、弾き終わったとたん先生に「もっと濃艶に弾くよう
に」と注意されたというのです。しかし、このひねた学生は、先
生のこの指導に対して、次のようにイチャモンをつけたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 されど我が師よ、我オンディーヌなるもの、かのメリザンドの
 如しとみるも如何に?
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もちろん青柳本人は、こんな芝居がかったいい方をしたわけで
はないのですが、フランス語は日本語よりも少し感じが固くなる
ので、先生にはこんな感じで聞こえたはずだと青柳は解説してい
るのです。なかなか面白い人です。
 要するに、「私のイメージするオンディーヌは、ドビュッシー
のオペラ『ペレアスとメリザンド』のヒロイン、メリザンドだと
思いますが、先生はどうお考えですか」――このように、青柳は
先生にイチャモンをつけたわけです。
 いかにもフランス人らしいと思うのは先生の対応です。いきな
り留学生から「オンディーヌはメリザンドである」と反撃されて
困惑しながらも、青柳の反論をしきりと面白がって、考え込んで
しまったというのですから・・。
 ところで、「オンディーヌはメリザンドである」――といわれ
ても当惑される方が多いと思いますので、しばらく「オンディー
ヌ」と「メリザンド」についてご説明することにします。
 「オンディーヌ」といえば、ジャン・ジロドゥが1939年に
発表した戯曲として知られています。劇団「四季」などでもよく
上演されています。このように「オンディーヌ」は、ジロドゥの
戯曲によってあまねく知られているのですが、その原作は、ラ・
モット・フケ−で、1811年に彼が書いたメルヘン小説『ウン
ディーネ』なのです。
 「ウンディーネ」とは何でしょうか。
 青柳いづみこによると、フケーが『ウンディーネ』を発表した
翌年の1812年、この話の出処を聞かれたフケーは、16世紀
の錬金術師パラケルススの『水の精、風の精、土の精、火の精そ
の他の精霊の書』(ズートホフ版全集、第14巻)という論文で
あるといったというのです。
 錬金術師パラケルススによると、この世の中は、4つの元素に
よって構成されていて、それぞれに次の妖精が宿るといっている
のです。
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  水の精 ・・・・・ ウンディーネ(UNDINE)
  風の精 ・・・・・ シルフ(SHYLPH)
  土の精 ・・・・・ ノーム(GNOME)
  火の精 ・・・・・ サラマンダー(SALAMANDER)
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 これでわかるように、ウンディーネというのは水の精霊のこと
なのです。フケーが小説の中で美しい人間の女性の姿をしたウン
ディーネを登場させて以来、ウンディーネといえば女性の姿をし
た妖精のことであると伝えられてきているのです。
 フケーは、小説の中でウンディーネを、気まぐれで、勝手で、
恐れを知らない、いかにも妖精らしい妖精として描いています。
そのため、ジロドゥも彼の戯曲「オンディーヌ」で、この影響を
受けてオンディーヌを描いているのです。かつて、女優の加賀ま
りこがオンディーヌ役をやって成功していますが、まさにぴった
りのキャスティングといえると思います。なお、戯曲「オンディ
ーヌ」では、「魚を食べない女」として描かれています。
 一般に妖精は魂を持たないといわれています。ウンディーネに
も魂はなく、人間と結婚することによってそれを得ることができ
るのです。しかし、魂を得たウンディーネは、人間と同じように
心配や悲しみを感じるようになり、それだけ不幸になるのです。
 また、人間の男と結婚した場合、そこに破ることのできない契
約が生まれるのです。その契約とは次の内容を持っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.夫は、水辺でオンディーヌの悪口をいわないこと
  2.夫は、他の女と浮気をすることは厳禁であること
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 この契約が破られると、オンディーヌは水の世界に戻らなけれ
ばならないし、夫も死ぬことになるのです。そして、その契約が
守られているかどうかを四六時中ウンディーネの仲間の妖精たち
が見張っているというのですから、ウンディーネの夫になるのは
相当の覚悟がないとなれないのです。
 このフケーのウンディーネは、いろいろな音楽家によって取り
上げられています。ラヴェルのピアノのための組曲「夜のガスパ
ール」の「オンディーヌ」、ドビュッシーのピアノのための前奏
曲「オンディーヌ」、日本人では、三善晃による音楽詩劇「オン
ディーヌ」、それから、ドイツのウェルナー・ヘンツェのバレエ
音楽「ウンディーネ」など――たくさんあるのです。
                −− [青柳いづみこ/02]

オンディーヌ.jpg
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2007年02月05日

●水の精は音楽にフィットする(EJ第1287号)

 オンディーヌが水の精「ウンディーネ」であることについては
昨日のEJで説明しましたが、一方の「メリザンド」とは一体何
者なのでしようか。
 メリザンドとは、もちろん、メーテルリンクの原作戯曲『ペレ
アスとメリザンド』のメリザンドのことです。この戯曲は、18
93年5月17日に、リュニェ・ポーの演出によって初演されて
いるのですが、この初演をドビュッシーは観ているのです。その
後、この戯曲の原作戯曲を手に入れて一読したドビュッシーは感
動し、音楽をつけることを決意するのです。
 ドビュッシーと原作者のメーテルリンクは、同じ1862年生
まれであるので、ドビュッシーは人を介してメーテルリンクと交
渉し、すぐ音楽化の許可をもらっています。音楽は1895年の
夏には歌劇『ペレアスとメリザンド』として完成し、その秋にメ
ーテルリンクから上演の許可をもらったのですが、つまらぬこと
でゴタゴタし、結局約7年後の1902年4月30日に、オペラ
・コミック座で上演されたのです。
 この『ペレアスとメリザンド』という歌劇に登場するメリザン
ドは、アルモンド国の王子ゴローが深い森の中の泉のところで見
つけた正体不明の女性なのです。王子ゴローはあまりの美しさに
心を奪われてメリザンドを城に連れて帰ります。そのときゴロー
は最初の妻を亡くし、独身だったのです。
 メリザンドは自分の素性については一切明かさなかったのです
が、結局ゴローはメリザンドと再婚するのです。しかし、メリザ
ンドは、あまりゴローが好きでなかったらしく、ゴローからもら
った結婚の指輪を泉のそばで放り投げて遊び、泉に落としてしま
うなど不可解な行動をとります。
 それどころか、メリザンドは、ゴローの弟であるペレアスに心
を惹かれ、愛し合うようになるのです。やがて、そのことを知っ
たゴローは怒り狂い、ペレアスを刺し殺し、メリザンドも死んで
しまう――話はこういう悲劇で終わるのです。
 それでは、メリザンドはなぜ水の精といわれるのでしょうか。
 これには諸説があるのです。王子や騎士が獣を追って深い森の
中を行くと、泉のほとりで若い女に出会うという話は、中世の人
魚の伝説「メリュジーヌ」に酷似しています。しかも、メリザン
ドと名前までよく似ています。
 メーテルリンクが作劇の構想をメモした手帳が残っているそう
ですが、その内容を分析した研究者によると、『ペレアスとメリ
ザンド』のヒロインの名前は次のように変遷しているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   クレール → ジュヌヴィエーヴ → メリザンド
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 「クレール」は「光」を意味しており、「ジュヌヴィエーヴ」
は、ベルギーではよく知られている中世の伝説『ブラバンのジュ
ヌヴィエーヴ』のヒロインの名前なのです。しかし、このジュヌ
ヴィエーヴは信仰の篤い聖女のような女性であり、弟と不倫を働
くような女性のイメージには合わない――そういうわけで、メー
テルリンクは、妖精のようなあやうい魅力を持つ人魚「メリュジ
ーヌ」にちなんで、メリザンドと名づけたのではないかと考えら
れるのです。
 ちなみに、ドビュッシーの歌劇『ペレアスとメリザンド』には
ペレアスとゴローの母として、ジュヌヴィエーヴというという名
のアルトが登場しますが、メーテルリンクは最初のうち、メリザ
ンド役にジュヌヴィエーヴの名前を考えていたのです。
 青柳いづみこは、『水の音楽』の副題に「オンディーヌとメリ
ザンド」と付けただけあって、これらの妖精――水の精について
非常によく調べています。ドビュッシーの研究家である青柳とし
ては、避けては通れない問題であるといえます。
 確かに妖精はよく音楽のテーマになることが多く、とくにオペ
ラでは、歌劇『ペレアスとメリザンド』のように、タイトルロー
ルとして取り上げられているものも多いのです。
 一般的に妖精は、人間の赤ちゃんの笑顔から生まれてきたとい
われており、無邪気で可愛いというイメージがあります。しかし
そういう妖精は少数派であって、大半は恐ろしい悪魔の化身なの
です。例えば、ムソルグスキーの組曲、『展覧会の絵』に登場す
る「バーバ・ヤガー」は、森の中で道に迷って困っている人間を
喰ってしまうロシアの残酷な妖精なのです。
 また、一見可愛らしく見える妖精――とくに水の精のように美
しい女性の姿をしている妖精も、人間社会の常識を知らず、善悪
の判断を持たず、自らの意識のおもむくままに天衣無縫の行動す
る――それがときとして人間に役立つことがある反面、次の瞬間
にはとんでもないいたずらをやってのけたりするのです。それが
妖精であり、根本的に人間とは違うのです。
 水の精は水に準じた特徴を持っています。流れるような長い髪
を持ち、着物からはしずくがぽたぽた垂れています。その性格も
水のように気まぐれでかわいらしかったり、突然癇癪を起こした
り、煽情的だったり、いたずらっぽかったり、あるいはイジワル
で冷酷無比だったりする――これが、音楽のさまざまな律動に自
然に乗るのです。そして、水の精は波のようにしなやかに踊った
り、この世ならぬ声で歌ったりする――音楽によくフィットする
ので、作曲家が進んで取り上げたくなる対象なのです。
 青柳いづみこは、水の精の中には意図的に人間たちを誘惑し、
自分たちの世界に同化させようとする人間くさい目的意識を持つ
ものが多いと指摘し、それらの水の精が人間を誘惑するタイプに
は、次の4つの原型があると述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.網をはり待つタイプ ・・・ メリザンド
   2.引きずり込むタイプ ・・・ セイレーン
   3.出かけて行くタイプ ・・・ オンディーヌ
   4.何もやらないタイプ ・・・ メドゥ−サ
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                −− [青柳いづみこ/03]

100周年記念公演/オペラ・コミック座.jpg
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2007年02月06日

●水の精の4つのアーキタイプ(EJ第1288号)

 水の精は人間に対していろいろワルサをするのですが、その原
型は次の4つになる――青柳いづみこはそういっているのです。
4つのタイプを再現します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.網をはり待つタイプ ・・・ メリザンド
   2.引きずり込むタイプ ・・・ セイレーン
   3.出かけて行くタイプ ・・・ オンディーヌ
   4.何もやらないタイプ ・・・ メドゥ−サ
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 「網をはり待つタイプ」の典型は、定められたある約束の時に
選び出された若者が来ることを網をはって待つタイプで、メリザ
ンドはこのタイプです。深い森の泉のほとりで若者がくるのを網
をはって待つのです。「眠れる森の美女」のお姫様も妖精と考え
ると、このタイプに当たります。
 「引きずり込むタイプ」の典型は、あの人魚ローレライです。
ライン河の岩の上で金髪をくしけずりながら、美しい歌声によっ
て船乗りを惑わせ、海底へと引きずり込む恐ろしい妖精――セイ
レーンという人魚なのです。
 ローレライというと、「なじかは知らねど、心わびて」という
あの有名な歌が反射的に出てきますが、これはハイネの詩にジル
ヒャー(1789〜1860)という作曲家が1838年に作曲
したものなのです。しかし、あのフランツ・リストもこの同じハ
イネの詩に作曲して歌曲を書いています。のちにリストはこれを
オーケストラ伴奏付きに改訂し、さらにその翌年にそれをピアノ
独奏曲に編曲しています。
 しかし、このことを知る人はあまりいないのです。それに「ロ
ーレライ」は民謡といわれていますが、それはこの詩を書いたハ
イネがユダヤ人であったため、ナチス政権下では民謡として扱わ
れたからです。青柳いづみこは、CD「水の音楽」の中でこのリ
ストのピアノ独奏曲「ローレライ」を弾いています。
 水の精の第3のタイプ「出かけて行くタイプ」の典型は、あの
オンディーヌです。そもそもこのオンディーヌ――ピアノの作品
としては、あまりにも有名な次の2曲があります。もちろん、青
柳いずみこは、CD「水の音楽」で両方を弾いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   モーリス・ラヴェル作曲
   『夜のガスパール』第1曲 水の精オンディーヌ
   クロード・ドビュッシー作曲
   『プレリュード』第2集/第8曲 オンディーヌ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このうち、ラヴェルの『夜のガスパール』は、19世紀のフラ
ンスの詩人アロイジウス・ベルトランの同名の散文詩なのです。
この『夜のガスパール』には、次の3つの詩が含まれますが、こ
の詩はベルトランの唯一の代表作であると同時に、文学史におい
ては、散文詩という新しいジャンルを確立したエポック・メーキ
ングな詩集として位置づけられています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.水の精オンディーヌ
       2.絞首台
       3.スカルボ
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 実はベルトランの『夜のガスパール』が世に出るのには興味深
い話があるのです。この詩集はベルトランの生前には話題にもな
らず埋もれていたのです。その埋もれていた詩を発掘したのは、
大詩人ボードレールでした。ボードレールが注目したのは散文詩
という新しい表現スタイルで、これに啓発されたボードレールは
小散文詩『パリの憂鬱』を書き上げて、その序文でベルトランを
絶賛したのです。これでベルトランの名が世に出るのです。
 さらに『夜のガスパール』をさらに有名にしたのは、かねてか
らボードレールの詩を愛読していたモーリス・ラヴェルで、これ
をピアノ曲として世に送り出したというわけです。ベルトランは
彼の死後、こういういきさつで認められたのです。
 さて、オンディーヌは「出かけて行く女」ですが、その目的は
人間の男を婿にむかえて水底の国に連れていくことなのです。オ
ンディーヌは、ささやく声で歌いながら、指輪を受け取って欲し
いと男に哀願します。しかし、男に自分は人間の女の方がよいと
拒否されると、オンディーヌは、幾しずくかの涙を流したかと思
うと、突如甲高い笑い声をあげ、窓ガラスに白々と流れる水滴に
なって消えてしまうのです。
 水の精オンディーヌの一節をご紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ――≪聞いて下さい!――聞いてください!――私です、オン
 ディーヌです。淡い月光に照らされた響くような菱形の窓に、
 雫となって軽く触れているのは、波の衣装を纏って、星のまた
 たく美しい夜と、眠りについている美しい湖を露台から見つめ
 ているお姫さまです≫。   ―――水の精オンデイーヌより
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 水の精の第4のタイプ「何もやらないタイプ」とは、どういう
行動をするのでしょうか。これは、自分からは何ひとつ行動を起
こすわけではないのですが、存在そのものが悪になるというタイ
プです。その典型は、ゴルゴーン3姉妹のメドゥーサです。
 ゴルゴーン3姉妹は、ステノ、エウリュアレ、メドゥーサの3
姉妹で、髪の毛はからみ合う蛇で、猪のような牙があり、手は青
銅でできており、黄金の翼を持っている――その中でとくに容貌
が恐ろしいのはメドゥーサで、これをひと目見た者は一瞬のうち
に石に変えられてしまうのです。
 妖精について、本を調べてみたのですが、いろいろな本が出て
います。『水の精の系譜』などというぴったりの本もありました
が、こういう本は価格が高くて閉口しました。世の中、いろいろ
なことを調べている人がいるものですね。
                −− [青柳いづみこ/04]

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2007年02月07日

●オンディーヌはなぜメリザンドなのか(EJ第1289号)

 水に関わる青柳いづみこの音楽論――もう少し続きます。青柳
によると、『夜のガスパール』には日ごろ愛聴している次のピア
ニストの名演があるそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.マルタ・アルゲリッチ
    2.イーヴォ・ボゴレリッチ
    3.アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私はこのうちミケランジェリ以外はCDを持っており、聴いて
います。そして、青柳いづみこの弾いている『夜のガスパール』
のオンディーヌも、もちろん聴いています。
 アルゲリッチは感情のこもった情熱的なピアノを弾く人です。
しかし、ラヴェルはきわめてクールであり、ちょっと考えると合
わないのではないかと思ってしまいますが、これが大変な名演な
のです。青柳は次のようにいっています。少し専門用語がまじり
ますが、イメージはわかると思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  アルゲリッチは、ときおり拍がずれたり、トレモロの音が抜
 けたりするところがあるが、左手のベルカント奏法がすばらし
 く、ときおりみせるアルペジオのゆらぎが何ともいえない。し
 なだれかかるようなルバート、かと思うと無慈悲に鋭くはねて
 みせるグリッサンドの尻尾。全体をつつむ煽情的・蠱惑的なひ
 びきは、あたかも彼女自身がオンディーヌであるかのようだっ
 た。   ――青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かにアルゲリッチの演奏は、女性ならではというところがあ
ります。本当にアルゲリッチがオンディーヌであるかのような感
じがするのです。青柳が留学したときに国立音楽院の教授に「も
っと濃艶に歌って弾くように」といわれましたが、その「濃艶に
歌う」演奏がアルゲリッチに見られるのです。
 これと対照的なのは、イーヴォ・ボゴレリッチの演奏です。ポ
コレリッチの演奏についての青柳の評価は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ボゴレリッチの演奏は、アルゲリッチに比べると、ずっと閉
 鎖的で耽美的な印象がある。かなり遅いテンポ。ミケランジェ
 リに劣らず、完璧な指の分離を誇る彼のトレモロはひとつひと
 つの音の粒がしっとりと露をふくみ、果肉の奥に核がすけてみ
 える葡萄の実のようだ。水そのものが言葉をもち、ささやきか
 ける。メロディもよくのびる音でたっぷりと歌われるが、それ
 は聴き手に呼びかける歌ではない。彼の内部で完結している歌
 だ。   ――青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アルゲリッチのように弾くには、できるだけ指先をのばして天
井を高く取り、手のひらの内側だけを緊張させた手を鍵盤の半分
まで沈め、力を完全に抜いて、ひじと手首を微妙にふるわせ、鍵
盤が反発しようとする力を利用しながら、その動きにさからわず
に弾かなければならない――しかし、青柳は手が硬く、とうてい
できない芸当であるというのです。そこで、青柳はボゴレリッチ
・スタイルをアレンジしようとしたと述懐しています。
 それに、青柳が指導を受けた国立音楽院の教授は、アルゲリッ
チ・スタイルのピアニズムで、トレモロの霧の上にくっきりと、
計算して甘く歌い上げるロマンチックな演奏をするのです。しか
し、青柳はこの曲の解釈として、あまりロマンチックなアプロー
チは、水に合わないと感じたのです。そのため「もっと濃艶に歌
って弾くように」という先生の指示に反発したのです。
 つまり、反発の理由は、水というものの解釈の違いにあるので
す。青柳は次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  水は本来抽象的なものである。水はどんな形でもとることが
 できるが、そのどれでもない。それは、ピアノの音についても
 いえる。ピアノは、イマジネーション次第でオーケストラのい
 かなる楽器にも擬せられるが、実は何でもない。
  水はピアノに似ているのである。その証拠に、水をテーマと
 した歌曲の水の描写の部分は、いつも伴奏のピアノが受け持つ
 ではないか。
      ――青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 青柳が弾きたかったのは、水そのものだったのです。水は鏡の
ように静かなときもあるが、突然何メートルもある渦を巻き、人
に襲いかかる。また、心地よいさざ波のときもあれば、どんより
としたよどみ水になったりしてさまざまに形を変える――しかし
水の本質そのものは変わらないのです。ただひたすらに水であり
続けるのです。そして、青柳は、ラヴェルの音楽には、そういう
水の何気ない恐ろしさというようなものが潜んでおり、それを表
現する必要があるといっているのです。国立音楽院の教授に対す
る「オンディーヌはメリザンドである」という反論の根拠は、こ
ういうものではなかったのかと考えられるのです。
 青柳いづみこの弾く『夜のガスパール』の「オンディーヌ」は
ボゴレリッチのようにやや遅いテンポをとり、けだるくまとわり
つく女性を象徴するような演奏になっています。それが水そのも
のを表現できているのかどうかはわかりませんが、明らかに、単
に美しいだけで終わってしまう演奏家の解釈とは一線を画す、青
柳いずみこ独特のオンディーヌ論を展開しているようです。
 なお、アルゲリッチとボゴレリッチには、面白い話があるので
す。アルゲリッチは、1980年にショパン国際コンクールの審
査員をしていたのですが、ボゴレリッチがコンクールに落選した
とき、これに抗議して審査員をやめています。それほど、アルゲ
リッチはボゴレリッチを高く評価していたのです。演奏スタイル
はまったく違うのですが、「天才は天才を知る」でボゴレリッチ
の才能を強く感じていたのだと思います。
                −− [青柳いづみこ/05]

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2007年02月08日

●ショパンとリストのピアノの実力(EJ第1290号)

 青柳いづみこがフランスの若手ピアニストにインタビューした
ときの話です。そのピアニストがいうのは、ショパンよりはリス
ト、ドビュッシーよりはラヴェルの演奏の方に容易さを感ずると
いうのです。音楽的にはショパンやドビュッシーにも同じように
共感をおぼえるのだが、どうしてもリストやラヴェルほどは手に
なじまないというのです。
 これはもしかしたら、ショパンよりはリスト、ドビュッシーよ
りはラヴェルの方が実際にピアノを弾くのが巧みであったのでは
ないか――一応このように推測できるのです。
 ピアニストにとって、ピアノを弾くのが上手な作曲家のピアノ
曲と、それとは逆にピアノを弾くのがあまり上手ではない作曲家
のピアノ曲のどちらが弾きやすいかということについて、青柳は
次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  楽器を弾くのが巧みな作曲家とあまり巧みではない作曲家の
 作品ではどちらが弾きやすいかというと、意外にも前者のほう
 が弾きやすいものである。楽器が巧みな作曲家の作品は、弾き
 やすいように工夫がしてある。
  たとえばリストのピアノ曲でも、超絶技巧は駆使しているも
 のの、どこかでオクターブを単音にしたり、アルペジオの音を
 減らしたり、筋肉が疲れすぎないような配慮が感じられる。対
 して楽器があまりよく弾けない作曲家は、技巧の限界がわから
 ないため、ときに演奏至難な作品を書いてしまったりする。
      ――青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ショパンとリスト、ドビュッシーとラヴェル――彼らのピアノ
の実力はどの程度のものだったのでしょうか。
 ピアニストにとって、手がどのようなかたちをしているか――
これは大きな問題です。リストがどのような手をしていたかは、
石膏模型で見ることができるそうです。手はかなり大きく、先端
が角ばって関節も太く、親指と薬指がとても長い。とりわけ指の
根元の関節と手首のバネが強靭で、筋力にも恵まれていたといわ
れます。そのため、きらめく音、強大なフォルテを出すことがで
きたのです。
 しかし、そういう身体的能力に恵まれていたとはいえ、リスト
のヴィルトゥオジテ(技巧性)は努力の賜物なのです。20歳の
ときにはじめてパガニーニの演奏を聴いて感動し、「ピアノのパ
ガニーニ」を目指して努力に努力を重ねたのです。ですから、ピ
アニストがどこが難しいか――とてもよくわかっていたのです。
 そういう意味では、ショパンの手は「兎を呑み込もうとしてい
る蛇の口」といわれるように、並外れた柔軟性に恵まれていたと
いわれます。これは天性のものです。しかし、手は華奢であり、
筋力もリストに比べて劣っていたのです。それに、ショパンの中
指と薬指は癒着しており、この2指に悩んでいたいわれます。
 そのためか、ショパンは18年のパリ生活で19回しか演奏会
を開かず、そのうちショパンだけが独奏者となったのはわずかに
4回であったというのです。当時の記録によると、ショパンのピ
アノタッチは弱く、大きな会場ではあまりよく聞こえないことが
多かったといいます。
 ピアノを演奏するリストの姿を描いている絵を見ると、手首の
位置を高くとり、腕全体を伸ばすように弾いているのに対して、
ショパンはひじを窮屈そうに曲げ、脇にぴったりつけて弾いてい
るのです。これは、明らかにクラヴサンを弾くときの演奏スタイ
ルなのですが、リストは現代のピアノに近い弾き方をしていると
思います。ちなみに、ショパンは1810年生まれで、リストは
1歳年下なのです。
 なお、クラヴサン(フランス)、チェンバロ(ドイツ)、ハー
プシコード(イギリス)は、すべて同じ楽器であり、昔のピアノ
――フォルテピアノの前身の楽器です。同じ楽器でも国によって
呼び方が違うのです。以上のように考えると、演奏家としては、
リストはショパンを上回っていたといってよいと思います。
 しかし、手指の条件がリストよりも劣っていたショパンは、ピ
アノ教育では後世に大変な貢献をしているのです。ショパンが活
躍するまでのピアノの指導は、5本の指に均等なタッチを求める
メトードが主流であり、すべての指が平面上に並ぶハ長調から練
習をはじめていたのです。
 しかし、ショパンは、それぞれの指の個性を尊重して、長い指
は黒鍵に、両端の短い指は白鍵に無理なく落ちる音型による練習
システムを考案したのです。したがって、音階についてもハ長調
は避け、黒鍵の多い嬰ハ長調やヘ長調、変ロ長調から練習をはじ
め、練習が進むにつれて、徐々にシャープやフラットを外すとい
うそれまでとは逆の指導法を取り入れています。
 ショパンの作品に黒鍵を使った調性が多いのは、こうした彼の
ピアにズムにフィットするためなのです。ショパンには、遺作を
含めて27曲の練習曲がありますが、そのうちシャープかフラッ
トが4つ以上の作品は15曲にも及び、明らかに意識して作られ
ていることを示しています。
 それならば、ドビュッシーとラヴェルのピアノ演奏の技術はど
うだったのでしょうか。
 結論からいうと、どちらもピアノの演奏家としては、必ずしも
傑出していなかったということがいえるのです。ドビュッシーと
ラヴェルは、ともにパリ音楽院のピアノ科の上級クラスに在籍は
していたのですが、職業演奏家の登竜門である1等賞を得て卒業
していないのです。
 ドビュッシーはショパンと同じように「ビロードのようなタッ
チ」といわれたのですが、実際はかなり不器用であったといわれ
ているのです。また、ラヴェルはヴィルトゥオジテを目指してい
たのですが、ことピアノの演奏技術にかけては、ドビュッシーに
も及ばないレベルであったといわれます。ドビュッシーとラヴェ
ル論については明日のEJでも続けます。
                −− [青柳いづみこ/06]

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2007年02月09日

●ドビュッシーとラヴェルの違い(EJ第1291号)

 ドビュッシーが優れたピアノの演奏家になれなかったのは、本
人の努力や資質もあるが、当時のパリ音楽院の指導方法にも原因
があったと青柳はいっています。ピアニストにとって、どの先生
に師事するのかはとても重要なのです。
 ドビュッシーは9歳でピアノをはじめていますが、ショパンの
弟子といわれるモーテ夫人に師事して、ショパンのピアにズムの
手ほどきを受けているのです。ところが、その1年後に入学した
パリ音楽院では、旧態依然たるクラヴサン(チェンバロ)時代の
指先に頼る奏法を指導されたのです。ここで、メトードの食い違
いが生じています。
 ショパンは、上流階級の子弟にピアノを教えていたので、彼の
画期的なメトードはプロフェッショナルな教育界にはまだ広がっ
ていなかったのです。また、教育界はどうしても今までの奏法に
こだわり、ショパンの革新的奏法には相当の抵抗感があって、そ
う簡単には受け入れなかったと思われます。
 しかし、そういう状況の下でも革新を目指そうとする演奏家は
いたのです。それは、ラヴェルより2歳年下で、ドビュッシーや
ラヴェルと同時期にパリ音楽院に学んでいたアルフレッド・コル
トーです。コルトーは、パリ音楽院の指先に頼る奏法に疑問を抱
き、ショパンの考え方を基調にして独自の奏法を編み出し、クー
プランのクラヴサン曲集などを次々とピアノ版に改訂していった
のです。そういう意味でコルトーは、フランス近代ピアノ奏法の
開発者と呼ぶのに相応しい存在なのです。
 そういうこともあって、ドビュッシーは次第に演奏よりも作曲
の方に傾注していったのですが、それは彼にとって正解であった
といえます。なぜなら、もし、ドビュッシーが演奏家を目指して
いたら、名を残すことはできなかったからです。
 このドビュッシーは、ラヴェルとともに印象派と呼ばれていま
す。19世紀末期になると、ヨーロッパの文化的中心はドイツか
らフランスへと移ります。1870年代のフランスの財政的崩壊
と不況の後、引き続き現れた繁栄の波が、パリに富と贅沢に満ち
た社会的風潮をもたらすにいたるのです。パリらしい洗練された
官能を持つ芸術性は、まず、モネやルノアール、ドガといった画
家たちの間で生まれ、彼らはロマン派の作風とは異なり、深遠で
情熱的な人生経験よりも、親しみやすい日常の出来事や光景を好
んで描写し、それは静かな淡い色調や、輪郭のあいまいさによっ
て表現されたのです。
 その作風は音楽界においても同様で、ドビュッシーやラヴェル
に代表される作曲家は、全音音階や中世の教会旋法、不協和音や
非機能和声などを用いて、音色の淡い、リズムのあいまいな印象
派音楽を確立させています。
 また、彼らは一見、標題音楽を受け継いだかのようにも見受け
られますが、ワーグナーやベルリオーズのように具体的内容を指
す主題を用いたり、内容の説明を楽譜に書き込んだりなどはして
いないのです。むしろ、「沈める寺」「水の反映」といった曲名
を付けて、それが示す光景の雰囲気を音で表現することを好んだ
というわけです。
 青柳いづみこは、ドビュッシーは美しいというよりも、背徳的
なことやデカタンス(退廃)の要素が多くあり、きわめて耽美主
義的であるといっています。青柳がこのことに気がついたのは、
彼女の祖父が、青柳瑞穂といって、詩人でフランス文学者であっ
た関係上、ジョイスの『ユリシーズ』やマルキド・サドなどの本
がたくさんあって、小学生の頃から、そういうものをよく読んで
いたからであるといっています。
 ドビュッシーの研究者として、大阪音楽大学で講義をしている
青柳が、インタビューで「ドビュッシーに会ってみたいか」と聞
かれて次のように答えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 絶対にイヤですね。すごくイヤな奴だったらしいですよ。同じ
 日にいろいろな人へ手紙を送っているんですが、みんなに「僕
 のことを本当にわかってくれるのは君だけ」と書いてあるんで
 すよ。それから音楽的にはウソ泣きの名人ですね。好みもポリ
 シーもどんどん変わっていくのです。もう、真実はどこにある
 の?という感じ。それから盛り上がっているところで、必ず水
 を差してみんなを冷やす。イヤな奴でしょう?
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そういうドビュッシーよりも13歳年下のラヴェルは、ピアノ
のウデこそドビュッシーよりも下でしたが、少なくともドビュッ
シーよりは、印象派風なピアにズムの開発には熱心であり、長じ
ていたといえます。よく「ドビュッシーやラヴェル」と一緒に名
前を並べますが、ドビュッシーとラヴェルは大きく異なります。
ラヴェルの音楽について、青柳は次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ラヴェルは、熱く燃えているものは持っているんだけど、それ
 を手にしようとすると、見えない壁があって中に入れてもらえ
 ないんです。いろいろなものが渦巻いているドビュッシーとは
 大違い。氷やドライアイスをさわるとやけどすることがありま
 すよね。ラヴェルはその感覚に近いです。秘められた情熱を持
 っているような音楽なのです。ですから、ドビュッシーとは同
 列にできないタイプの音楽なんですね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ラヴェルの音楽は、ひとことでいうと「抑制の極致」というべ
きなのです。感情を素直に表現するのではなく、考えていること
とは別のことをいったり、逆のことをしたりします。ですから、
その故意のいい落としや婉曲な表現について、演奏家は考え抜い
て解釈する必要があります。
 青柳によると、ラヴェルはドビュッシーよりはずっと「歌」の
ある作曲家なのですが、きわめて恥かしがりやである性格から、
そこに強い抑制が働くのです。したがって、抑制することが彼の
裏返しのロマンチシズムの発露といえるのです。
                −− [青柳いづみこ/07]

青柳いずみこ07
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2007年02月13日

●ラヴェルとリストの関係(EJ第1292号)

 青柳いづみこは、本と連動したCD「水の音楽/オンディーヌ
とメリザンド」の冒頭にリストの『エステ荘の噴水』を置き、そ
のあとラヴェルの『水の戯れ』、ドビュッシーの『水の反映』を
置いていますが、これはきわめて意味のある配置です。
 『エステ荘の噴水』においてリストは、ピアノの技巧を駆使し
て、水そのものの擬音的な効果を演出しています。この曲はリス
トがローマ郊外のティヴォリにあるエステ家のヴィラ――エステ
荘に滞在していたときに作曲されています。エステ荘には「コッ
プの泉」、「百の噴水」、「ドラゴンの噴水」、「水オルガンの
大噴水」など大小さまざまな噴水があり、リストはそれを見なが
ら何時間も立ちつくしていたといわれます。
 少し専門的になって恐縮ですが、このリストの『エステ荘の噴
水』は、属九のアルペジオではじまるのですが、和音の響きが独
立した音の素材として使われており、明らかにドビュッシーやラ
ヴェルの書法を先取りしています。ちなみに、アルペジオという
のは、分散和音といって和音の各音を同時にではなく、下または
上から順番に演奏することをいうのです。
 ラヴェルの『水の戯れ』は、この『エステ荘の噴水』を意識し
て書かれています。実は『水の戯れ』の原題というのは、『エス
テ荘の噴水』の原題――メール上にフランス語は書けないので省
略――から後半の「ヴィラ・デ・エステ」をとって水を単数にし
ただけなのです。
 ラヴェルはショパンに心酔していましたが、ピアノの技巧に関
してはリストに憧れており、何とか自分の作品にとり入れたいと
努力していたのです。『水の戯れ』でラヴェルは、神秘的な和音
をベースに、水のさざめき、噴水、滝、小川などが織りなす音楽
的な響きを重視して仕上げています。水を単数にしたことについ
て青柳は次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 水が単数というのは重要なポイントで、リスト風の多量な水や
 大噴水は、音の細密画家ラヴェルには必要なかったということ
 だろう。 ――青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、ラヴェルは、リストのヴィルトゥオジテを参考にしな
がらも、単なる軽業師的、技巧的表現に終わらないように、そこ
に純粋な音楽的な理由を取り込んでいるのです。まさに音の細密
画家といわれるだけのことはあります。
 ところで、このラヴェルの『水の戯れ』とドビュッシーの『水
の反映』は、聴き比べてみるととても興味深いのです。実は、こ
の2曲をめぐって因縁深い対立があったのです。それは、批評家
のピエール・ラロが「ル・タン」紙上において、ラヴェルの『水
の戯れ』をドビュッシーの『雨の庭』の二番煎じとこき下ろした
ことに端を発するのです。
 そのとき、ラヴェルは同じ「ル・タン」紙上に次のような反論
を掲載して抗議しています。1907年4月9日のことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  私が『水の戯れ』を書いたときドビュッシーは、ピアノ曲は
 まだ3つの作品しか書いていなかったのです。3つの作品とい
 うのは、私自身熱烈な賛嘆の念を抱いていることをいまさら申
 すまでもない曲のことですが、ピアノ手法という点からみれば
 これらの作品には取り立てて新しいものはありません。
      ――青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この件に関しては、ラヴェルの主張は正しいのです。なぜなら
ドビュッシーの『雨の庭』を含む組曲『版画』は1903年に書
かれていますが、ラヴェルの『水の戯れ』は、1901年の作で
あるからです。それにピアノ手法としても、ドビュッシーよりも
ラヴェルの方が先んじていたと思われるからです。
 というよりは、『水の戯れ』と『水の反映』には、その基本的
な考え方において、根本的な違いがあるのです。というのは、ラ
ヴェルの『水の戯れ』の主役はあくまで水そのものであるのに対
して、ドビュッシーの『水の反映』は、水そのものよりも、絶え
ず変化し続ける水面に焦点が当っているのです。
 水面におどる光の粒、木々の影、したたり落ちるしずくとひろ
がる波紋――水の中をのぞき込む人間自身の心象風景が描かれて
いるのです。そのため、ドビュッシーの場合、表現は象徴的にな
り、音色はにごって不透明になります。
 『水の戯れ』と『水の反映』におけるラヴェルとドビュッシー
の違いを青柳は、誰でもわかる表現で次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  もし、彼らの水を飲めといわれたら、ラヴェルの水は飲める
 けれども、ドビュッシーの水は、あおみどろが浮かんでいたり
 して、あまり飲みたくない、そんな気がしないだろうか。
      ――青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ラヴェルのピアノ曲は、明らかにリストの影響を受けていると
思います。音楽に詳しく、とくにラヴェルとドビュッシーについ
ての著作まであるフランスの哲学者、ジャンケレヴィッチは、ラ
ヴェルの作品について次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  『水の戯れ』は、(リストの)『エステ荘の噴水』や『泉の
 ほとりで』なしに、『スカルボ』(「夜のガスパール」の第3
 曲)は(リストの)『メフィスト・ワルツ』なしに、『水の精
 /オンディーヌ』は、(リストの)『波を渡るパオラの聖フラ
 ンチェスコ』の 急速な走句なしに存在しえただろうか?
                  ――ジャンケレヴィッチ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                −− [青柳いづみこ/08]

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2007年02月14日

●バラードとは物語である(EJ第1293号)

 水の精に関わるピアノ曲で、もうひとつ取り上げるべき作品が
あります。それは、フレデリック・ショパンの次の作品です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    「バラード」第2番  ヘ長調 作品38
    「バラード」第3番 変イ長調 作品47
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ショパンは4つの「バラード」を書いています。そのうち「バ
ラード」第1番は、映画『戦場のピアニスト』のクライマックス
・シーンでシュピルマンによって演奏されています。映画でこの
曲を聴いて、ショパンが好きになった人は多いようです。
 「バラード」とは、元来イタリア語で「物語」という意味なの
です。「物語」という以上、それはおそらく人の語るようなもの
を指していることは明らかです。ショパンは、この形式をピアノ
独奏ではじめて使った作曲家なのです。
 それでは、ここで語られる「物語」とはどのようなものなので
しょうか。
 ショパンの4つの「バラード」は、いずれもショパンと同郷の
詩人アダム・ミツキェヴィッチの『バラードとロマンス』の中の
詩に深い関連があるといわれているのです。中でも第2番と第3
番はいずれも「水の精」の物語であるとする説が強いのです。青
柳が、その著作『水の音楽』とそれに対応するCDの中に第2番
と第3番を取り上げているのはそのためです。
 青柳は、1975年のショパン・コンクールで優勝したポーラ
ンドのピアニスト、クリスティアン・ツィメルマンが、「バラー
ド」を収録したディスクの第2番のライナー・ノートの次の解説
をひっぱり出してきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 シフィテシ湖上では乙女たちが夜踊り、昼には消えてしまいま
 す。彼女たちは一緒に踊るように少年たちを誘い、彼らを深い
 水底へと引き込んでしまうのです。    ――ツィメルマン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 青柳は、はじめて「バラード」を演奏したとき、楽譜に書きつ
けられたこの神秘的な水の精の物語に胸をおどらせ、はるかリト
アニアの湖に思いをはせた経験があるといっています。だからと
いって、それによって演奏解釈が歪められたりはしないと明言し
ています。青柳自身は、とくに第2番、第3番の曲の印象は、ミ
ツキェヴィッチの詩の物語に、あまりにもぴったりであるからと
いっているのです。
 しかし、これには反対意見が多いのです。「バラード」は、標
題音楽ではないというのです。標題音楽というのは、あらかじめ
定められたプログラムがあり、作曲家がそれをできるだけ忠実に
音で表現しようとするものですが、ショパンはミツキェヴィッチ
の特定の詩に曲をつけるという考え方で「バラード」を作曲した
のではないという意見です。
 例えば、『ショパンを解く!』の著者、ブクレシュリエフは、
次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ショパンのバラードは「現実的」物語や「標題」とは関係が
 ない。何かを明らかにしようとする注釈者の努力など虚しい。
 情熱的な音を知ってもショパンの作品を語るにはやはり「抽象
 的」であることが肝要だ。
              ――アンドレ・ブクレシュリエフ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かに「バラード」は標題音楽とはいえませんが、純粋な絶対
音楽かというと、必ずしもそうとはいい切れないのです。それに
当時の時代背景も考慮に入れる必要があります。
 ショパンが「バラード」を作曲した当時はあらゆる芸術が「言
語」とみなされており、詩は言葉、彫刻は形態、音楽は音の言語
で表現するものと考えられていたのです。ロマン派時代には詩が
最高の芸術であるとされ、音楽は低く扱われていたのです。
 したがって、19世紀の聴衆はどんな器楽曲も勝手に「詩化」
して聴く習慣があり、とんでもない物語を捏造される恐れがあっ
たのです。それを防ぐため、リストは音楽に標題をつけることに
よって、聴衆のイメージを方向づけようとしたのです。現在では
どちらかというと絶対音楽の方が高く評価される傾向があります
が、ショパンが「バラード」を作曲した1830年代末から40
年代は、そのどちらの概念も存在していないのです。
 確かに、ショパンは、作品に文学的「標題」を冠し、音によっ
て情景を描く手法を嫌っていたのです。しかし、ショパンはミツ
キェヴィッチやハイネと親しく付き合っており、彼らの詩に深い
共鳴を覚えていたこともわかっています。したがって、標題音楽
ではないが、詩にインスピレーションを感じて作曲したというこ
とは十分あり得るのです。
 「バラード」第2番はドラマチック、第3番は優雅なロココ調
に満ちた曲ですが、ひとつだけ共通するところがあります。それ
はミツキェヴィッチのバラードにみられる水とそれを象徴する水
の精の変容――最初は穏やかであるのに突如として豹変し、人間
を水底にひっぱり込む突然の変容――なのです。これは、「夜の
ガスパール」のオンディーヌとも共通する点といえます。それは
実際に曲を聴いていただければ明らかなことです。
 水の精からアプローチした作家ピアニスト/青柳いづみこの音
楽論――いかがでしたか。2月1日から9回にわたってお送りし
ましたが、これで終わります。
 実際に音楽を聴いてみたいという方は、ぜひ青柳いづみこの次
のCDの購入をお勧めします。EJで取り上げたほとんどの曲が
青柳いづみこ自身のピアノ演奏で聴くことができます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ピアノ演奏/青柳いづみこ
   『水の音楽』/KICC363/キングレコード
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                −− [青柳いづみこ/09]

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2007年02月15日

●指揮台に立つのが事件といわれる指揮者(EJ第1466号)

 2004年7月13日――カルロス・クライバーという高名な
指揮者がその74年の生涯を閉じています。この指揮者、近年ほ
とんど演奏をやっておらず、クラシック音楽ファンでなければ、
名前を知らない人も多いかも知れません。
 しかし、実演にせよ、ビデオにせよ、CDにせよ、一度でも彼
の指揮する音楽を聴いた人であれば、忘れることのできない鮮烈
な印象を与える指揮者であるといえます。
 指揮者というのはオーケストラで唯一楽器を演奏しない音楽家
です。したがって、たとえば、ベートーヴェンの交響曲第5番ロ
短調「運命」を何人かの指揮者の演奏で聴き比べても、少なくと
も音楽の素人には、そこにはっきりとした違いを見つけられない
ことはよくあることです。
 しかし、カルロス・クライバーの場合は違うのです。たとえば
彼の指揮した「運命」は、音楽にあまり詳しくない素人が聴いて
も、明らかに他の指揮者との違いを感ずるはずです。クライバー
はそれほど凄い指揮者であるといえます。したがって、カルロス
・クライバーの死は、一般の音楽ファンにとっても大きなニュー
スであり、EJのテーマとして彼の音楽論を取り上げる価値はあ
ると思います。
 それはさておき、指揮者といえば、新聞などで報じられていな
いあるニュースがあります。2004年10月23日(土)にN
響のAチクルスの演奏会があったのです。N響は、この秋のシー
ズンから、新音楽監督にウラディーミル・アシュケナージが就任
しているのですが、23日はそのアシュケナージがAチクルスに
はじめて登場したのです。演奏曲目は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪ウラディーミル・アシュケナージ音楽監督就任記念≫
  チャイコフスキー/交響曲 第3番 二長調 作品29
  チャイコフスキー/交響曲 第4番 ヘ短調 作品36
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところが、開演直前の午後5時56分に第1回目の地震があっ
たのです。この地震は東京でも相当揺れたので、N響側としては
開演を10分程度遅らせたのです。そして、第1曲目がはじまっ
たのですが、午後6時30分過ぎにも地震が起こっています。
 演奏は何事もなく進められましたが、あとから考えると指揮者
のアシュケナージの様子は、左手をかばうように動かさないなど
どことなくおかしかったのです。その後も何度か余震はありまし
たが、とにかく第1曲目は無事に終了したのです。
 しかし、アシュケナージは地震のショックによって、指揮棒で
左手の手のひらを突き刺し、裂傷を負っていたのです。そのため
アシュケナージは1曲目が終了すると直ちに病院に運ばれ、第2
曲目はコンサート・マスターの指揮で行われたのです。
 このようなことは、普通の音楽会では起こりえないことです。
しかし、それがN響の定期公演で起こったのです。新音楽監督の
アシュケナージにとって何とも不幸なスタートとなってしまった
ようです。どうも今年のNHKはついていないと思います。
 カルロス・クライバーの話に戻ります。こういう高名な音楽家
が亡くなると、CDショップでは、追悼イベントが行われるのが
つねですが、クライバーの場合、非常に遺した作品が少ないので
す。とにかくクライバーは、指揮台に立つこと自体が「事件」と
して騒がれるほど公演回数が少なかったので、ビデオやCDで聴
ける作品は数えるほどしかないのです。
 このカルロス・クライバーのことを評して、かのヘルベルト・
フォン・カラヤンは次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  この芸術家が音楽することを楽しむ機会があまりにも少ない
 のは残念。彼が指揮するのは冷蔵庫の中身を補充する必要に迫
 られたときだけだ。   ――ヘルベルト・フォン・カラヤン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 カラヤンとクライバーはあまり親しくはないのです。カラヤン
は、生前クライバーをただの一度もベルリン・フィルに招くこと
はなかったといわれています。おそらくカラヤンは誰よりもクラ
イバーの天才ぶりを熟知しており、自分の影が薄くなるのを恐れ
たのではないかといわれているのです。
 しかし、クライバーの方はカラヤンを尊敬していたのです。こ
んな話があります。カラヤンがザルツブルグ・イースター音楽祭
において指揮する「ニーベルングの指輪」の「ジークフリート」
をリハーサルしたとき、クライバーは14日間も勉強のために客
席に座り続けていたというのです。そのとき、既にクライバーは
指揮者として大成していたのですが、彼は文字通りカラヤンのリ
ハーサルから何かを学ぼうとしていたのです。
 カルロス・クライバーは、日本が非常に気に入ったらしく、全
部で5回の来日公演を行っています。これを見ると、日本におけ
る公演回数は非常に多く、日本の音楽ファンは恵まれていたとい
えます。彼はこれ以外にもお忍びで2回も来日しているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.1974年 バイエルン国立歌劇場 ・・・・  4公演
 2.1981年 ミラノ・スカラ座 ・・・・・・ 10公演
 3.1986年 バイエルン国立管弦楽団 ・・・  8公演
 4.1988年 ミラノ・スカラ座 ・・・・・・  6公演
 5.1994年 ウィーン国立歌劇場 ・・・・・  6公演
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                 −− [クライバー/01]


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2007年02月16日

●ヒンデミット事件とクライバー一家(EJ第1467号)

 カルロス・クライバーはどのような指揮者なのか、その音楽は
なぜ注目されるのか、なぜ、公演回数が少ないのか――カルロス
・クライバーには数多くの疑問があります。今朝からひとつずつ
それらの謎を解いていきたいと思います。
 まず、カルロス・クライバーはどこの国の人なのでしょうか。
最初に答えをいうと、オーストリア人なのです。しかし、カルロ
スは、1930年にベルリンで誕生しています。カルロスの父親
で大指揮者のエーリッヒ・クライバーは、カルロスを自分と同じ
オーストリア人として出生届を出しています。そのときの名前は
「カール」だったのです。
 そのときドイツはナチス政権時代――エーリッヒはベルリン歌
劇場に職を得ていたのですが、多くの音楽家がそうであったよう
に、父親のエーリッヒはナチス政権に反旗を翻し、南米のブエノ
スアイレスに移住します。そしてそこでアルゼンチン国籍を取得
するのです。これに伴い息子の名前の「カール」はスペイン語の
「カルロス」に改められたのです。
 指揮者として有名になってからのカルロスは、ミュンヘン郊外
に居を構えており、仕事のほとんどはドイツからのものであった
にもかかわらず、ドイツ国籍を取ろうとせず、50歳になったと
きにオーストリア国籍に復帰しているのです。そのためか、カル
ロスはウィーンで好意的に見られているのです。
 さて、なぜ、父親のエーリッヒがナチス政権と決別してアルゼ
ンチンに移住したのかというと、それには有名な「ヒンデミット
事件」といわれる事件がからんでいるのです。
 ヒットラーを中心とするナチス政権は、1933年以降徹底し
たユダヤ人迫害政策のひとつとして、政治的側面のみならず芸術
的側面にもさまざまな破壊活動を行ったのです。そのナチス政権
によってその芸術を「頽廃」と決めつけられたドイツ人作曲家が
パウル・ヒンデミット(1895〜1963)だったのです。
 ヒンデミットは、優れたヴァイオリンやヴィオラの演奏家であ
り、作曲家であると同時に教育家でもあったのです。1927年
からはベルリン音楽大学で教鞭を取っていますし、のちに米国に
わたって、イェール大学の教授にもなっているのです。1953
年以降はスイスに移り住み、晩年はもっぱら指揮者として活躍し
来日公演も行っている人です。
 さて、ナチス政権が「頽廃」と極めつけたのは、ヒンデミット
の作曲した歌劇「画家マチス」だったのです。近年の研究による
と、マチスは「マチス・ナイトハルトまたはゴールドハルト」と
呼ばれており、「キリストの磔刑」などが代表作です。
 マチスは大司教に仕える画家でしたが、中世農民戦争に関わり
改革派に加担しているのです。歌劇では、自分の芸術とは誰のた
めのものかを自問する主人公の苦悩を中心に、権力と芸術との関
係に言及していたため、ナチス政権は気に入らなかったのです。
 ヒンデミットのこの歌劇「画家マチス」を上演しようとしたの
が、ベルリン・フィルの音楽監督であったフルトヴェングラーな
のです。しかし、歌劇場長官のゲーリングから上演禁止を命令さ
れます。
 これを知ったヒンデミットは、歌劇「画家マチス」を交響曲に
書き換えるのです。そして、1934年10月に交響曲「画家マ
チス」は、フルトヴェングラーの指揮によるベルリン・フィルに
よって初演され、大変な成功を収めたのです。
 それと同時にフルトヴェングラーは、1934年11月25日
付の「ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙上に『ヒン
デミットの場合』という論説を書き、ヒンデミットを全面的に擁
護したのです。
 この反響は驚くべきものだったのです。新聞はたちまち売り切
れ、増刷をするほどだったというのです。この論説が発表された
日の午前中にベルリン・フィルの公開練習があったのですが、フ
ルトヴェングラーの勇気ある発言に感動した人たちが会場を埋め
尽くし、彼が姿を現すと、全員立ち上がって足を踏み鳴らしての
大拍手が20分間も止まらなかったといわれています。
 そして、その日の夕方、国立歌劇場でワーグナーの歌劇「トリ
スタンとイゾルデ」がフルトヴェングラー指揮によるベルリン・
フィルの演奏によって上演されたのです。そのときもフルトヴェ
ングラーが姿を現すと、午前中と同じことが起こったのです。
 そのときの模様をフルトヴェングラーの秘書であるガイスマー
は、次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  切符は完全に売り切れてしまっており、ゲーリングもゲッペ
 ルスも共に各自の専用桟敷席に収まっていたが、フルトヴェン
 グラーがオーケストラ・ピットに姿を見せたとたん、朝のフィ
 ルハーモニーで起こったのと同じことが起こった。何者でも止
 めることのできぬ、あたかも永遠に続くかと思われるほどの拍
 手が劇場いっぱいに広がった。あの素晴らしい前奏曲が始まり
 憂愁につつまれた美しい雰囲気が作品をいっそう盛りあげて、
 それはすべての聴衆の心に深く浸透していった。終演後にもま
 た開演の時のような拍手の嵐が再現した ――ガイスマー著、
        筒井圭訳、『フルトヴェングラーと共に』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ゲーリングとゲッペルスは、この事態に危機感を抱きます。そ
して、それをヒットラーに伝えます。その結果、フルトヴェング
ラーはベルリン・フィルを辞職します。彼のことですから、世界
各国のオケから誘いがかかったのですが、それらをすべて断り、
あえて、ドイツ国内にとどまったのです。「俺はこの国がどこに
行くのか、見極める必要がある」として・・・。
 エーリッヒ・クライバーは、フルトヴェングラーの考え方に公
式に賛同を示し、ベルリン歌劇場を辞職するのです。そして、家
族全員で、アルゼンチンに移住します。ヒンデミット事件は、ク
ライバー一家に大きな影響を与えたのです。明日は、カルロス・
クライバーがどのような指揮者なのかについて考えます。
                 −− [クライバー/02]

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2007年02月19日

●大指揮者エーリッヒとの関係(EJ第1468号)

 カルロス・クライバーが死去した地は、スタニスラヴァ夫人の
出身地であるスロヴェニアのコンシチャという町です。一部報道
では、母親の出身地のスロヴェニアと伝えられていますが、間違
いです。そのスタニスラヴァ夫人も、2003年の12月に亡く
なっており、寂しい晩年だったようです。
 スロヴェニアの住民たちは「大変偉い人」という認識をクライ
バーに対してもっていたものの、実際にはどのような人物である
かは知らなかったと思われるのです。
 そのため、世界がクライバーの死去のニュースを知るのに5日
ほどかかったのです。そして、各国のメディアは、7月19日に
なってはじめて「クライバー逝去」のニュースを流したのです。
そういう各国の新聞・雑誌の扱いを見ると、クライバーに対する
評価は、掛け値なしに、フルトヴェングラー、トスカニーニ、カ
ラヤン、バーンスタインに匹敵する高い評価だったのです。クラ
イバーは大指揮者として扱われているのです。
 カルロス・クライバーは、大指揮者といわれたエーリッヒ・ク
ライバーの息子であり、二世指揮者ということになります。しか
し、そういわれることを親子ともに嫌ったそうです。エーリッヒ
は、カルロスが音楽をやりたいと希望したにもかかわらず、最初
はそれを認めず、カルロスはチューリッヒ工科大学で化学を専攻
することになるのです。
 しかし、カルロスの音楽への夢は絶ちがたく、父親と交渉し、
その結果、才能がないと気づいたら化学の道に戻るという条件付
きで、ブエノスアイレスで音楽の勉強を始めるのです。1950
年のことです。その当時カルロスはスコア(楽譜)がぜんぜん読
めなかったそうです。それにこの親子は、カルロスがエーヒッヒ
の息子であるということを隠すため、カール・ケラーという名前
で音楽を勉強することになったのです。
 しかし、カルロスには天賦の才能があり、また、父のリハーサ
ルを子供の頃からいつも見ていたということもあって、たちまち
音楽の世界で頭角をあらわしていくのです。
 1952年にヨーロッパに戻ったカルロスは、ミュンヘンのゲ
ルトナープラッツ劇場で練習指揮者として採用されます。さらに
2年後の1954年、カール・ミレッカーのオペレッタ『ガスバ
ローネ』をボツダムで振って指揮者デビューを果たしています。
20歳ではじめて音楽を勉強したにしては、わずか4年で指揮者
デビューですから、驚くべきことです。
 1956年には、デュッセルドルフのライン・ドイツ・オペラ
の練習指揮者になり、1958年には正式指揮者に昇格していま
す。そして、1964年から1966年までチューリッヒ歌劇場
で、1966年から1972年までシュットゥットガルトのヴェ
ルテンブルグ州立歌劇場で指揮者を務めているのです。
 それにしても、父親であるエーリッヒ・クライバーは、これほ
ど音楽的才能に恵まれた息子に、本人が強く希望しているにもか
かわらず、なぜ専門的な音楽教育をさせなかったのでしょうか。
大指揮者であったエーリッヒであれば、息子の音楽的才能が尋常
ではないことに気がつかないはずはないと思うのです。
 推測ですが、エーリッヒは尋常ならざる息子の才能に、同じ指
揮者として、恐れを抱いていたのではないかと思うのです。息子
が指揮者になって活躍すると、音楽家としての自分の影が薄くな
る――そう考えたのではないかと思うのです。
 しかし、カルロスの方は父親を尊敬し、何かというと「親父は
こういった。ああいった」といい、相当のファ−ザ−・コンプレ
ックスにかかっていたといえるのです。しかし、エーリッヒは音
楽に関しては息子にあまり教えていないのです。
 クライバーは実に勉強熱心であったといわれています。とくに
はじめての作品を振るときは、作曲家について書かれた入手可能
な本をすべて読み、手に入る限りの録音を聴いて他の指揮者が同
じスコアをどのように解釈したかを知り、それから使用するスコ
アの版を決定し、すべてのパートをひとつずつ検討するという極
めて緻密な方法をとっていたのです。
 この当時のクライバーは、後年では考えられないほど広範なレ
パートリーのオペラやバレエを振っていたのです。しかし、シュ
ットゥットガルト歌劇場時代のあるトラブルを契機にクライバー
は、専属を避けてフリーの道を選ぶようになっていくのです。
 そのトラブルとは、クライバーがエディンバラ音楽祭の目玉公
演としていた歌劇『ヴォツエック』の公演を直前になってキャン
セルしたことです。この公演はBBCが収録を予定していたこと
もあって、一大スキャンダルに発展してしまったのです。
 しかし、かかる不祥事にもかかわらず、クライバーは同歌劇場
の首席指揮者に昇格するのです。それは、クライバーの才能を誰
よりも高く評価していたヴァルター・エーリヒ・シェーファー総
監督の配慮によるものなのです。
 それに応えるようにクライバーは、『魔弾の射手』、『蝶々夫
人』、『カルメン』、『オテロ』、『トリスタンとイゾルデ』な
ど、超大ヒットを飛ばし続けたのです。しかし、この頃から、ク
ライバーは気難しい、扱いにくい指揮者というレッテルが貼られ
ていくことになるのです。
 一般に指揮者は、年を重ねるにつれて円熟味を増していく成長
型の範疇でとらえられます。ドイツ・オーストリア系の音楽家は
ほとんどそういう型――老成・円熟型に属します。しかし、カル
ロス・クライバーの場合はそれが当てはまらないのです。
 クライバーの音楽は、1970年代時点――40歳代で完成の
領域に達しており、独自の世界を形成しているのです。彼の指揮
ぶりは、しなやかに舞い踊るさまに似ており、会場を興奮の坩堝
に変える恐るべきパワーを持っているのです。
 聴く者は、まるで電光に打たれたように翻弄され、自分を通り
過ぎて行く音楽にただ呆然となってことばがない――こういう世
界をクライバーは作り出すのです。それには、彼独特の緻密な研
究の集積がそれを可能にさせるのです。
                 −− [クライバー/03]

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2007年02月20日

●準備に膨大な時間をかける指揮者(EJ第1469号)

 カルロス・クライバーの指揮ぶりを見ると、己の閃きを信じて
一瞬に燃え尽きる音楽を創り出しているように見えます。その指
揮ぶりは舞うように軽やかであり、己の天才的な感覚のおもむく
ままにやっている――そのような感じに見えます。
 しかし、クライバーは準備に信じられないほど時間をかける指
揮者なのです。そのひとつの逸話をご紹介します。それは、19
79年にウィーン・フィルを振ってブラームスの交響曲第4番を
演奏したときの話です。
 クライバーのレコード・デビューは、1973年のドレスデン
における歌劇『魔弾の射手』≪全曲版≫なのですが、その翌年の
1974年にはじめてウィーン・フィルと組んでベートーヴェン
の交響曲第5番『運命』を振っています。
 ウィーン・フィルというのは、気位の高い難しいオーケストラ
であり、それをはじめて振るにはそれなりの手続きが必要といわ
れます。それだけに、クライバーのようなかたちで簡単に公演が
決まるということは異例なのです。これは、クライバーの希望と
いうよりは、ウィーン・フィルの方がクライバーに惚れ込んだと
いう方が当たっていると思います。ウィーン・フィルにとってこ
んなことは稀有なことなのです。
 さて、コンサートでブラームスを振るのは、12月であるのに
クライバーは7月にウィーン入りしているのです。そして、楽友
協会でブラームスの自作譜の研究に没頭したといわれています。
このように書くと、彼がこの曲の研究をそのときにはじめたと考
えるかもしれませんが、彼はそれよりも6ヶ月も前からこの曲の
研究をはじめていたというのです。それほどの時間をかけて準備
し、12月のコンサートに臨んでいるのです。
 結果はすばらしいものだったのです。ディ・プレス紙はユリウ
ス・カエサルの言葉をもじってこのコンサートのことを「クライ
バーは来た、見た、勝った」と報じ、他のマスコミもそれに準じ
た報道をしています。
 このときの演奏ではありませんが、クライバーの指揮によるブ
ラームスの交響曲第4番ホ短調は、次のCDで聴くことができま
す。1980年3月にムジークフェラインで収録された演奏であ
り、クライバー49歳のときの演奏です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ブラームス/交響曲第4番ホ短調作品98
  カルロス・クライバー指揮/ウィーン・フィルハーモニー
  管弦楽団 グラモフォン[D]UCCG7011
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このCDの演奏に関して音楽評論家の諸石幸生氏は次のように
述べています。一部をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  演奏を耳にしてまず実感するのは、感じる人、それも痛いほ
 どの切実さで作品の心を感じる人、それがクライバーであると
 いう事実である。(一部略)
  美しい演奏であることは論を待たない。しかし、クライバー
 の指揮で再現される交響曲第4番は、生きるか死ぬかといった
 切実な気配が充満しており、ソファーに深々と身体を横たえて
 聴けるような代物ではない。        ――諸石幸生氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この作品は1980年代になってからですが、クライバーが指
揮界に華々しく登場したのは1970年代前半――正確には19
73年のことです。この1973年に『レコード芸術』(音楽の
友社刊)が批評家30人による「現代名指揮者ベスト・テン」を
次のように選んでいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.ベーム          6.ムラヴィンスキー
  2.カラヤン         7.小沢征爾
  3.バーンスタイン      8.メータ
  4.ショルティ        9.アバド
  5.ブーレーズ       10.サバリッシュ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まさにベテランから若手まで多士済々の指揮者が名を連ねてお
り、この中に割って入るのは容易なことではないのです。しかし
カルロス・クライバーは、次の4曲の演奏をやっただけで、ベー
ム、カラヤン、バーンスタインの中に分けて入ったのです。それ
ぞれに付けられた広告コピーが実に印象的です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ウェーバー作曲
   歌劇『魔弾の射手』≪全曲≫ ・・・・・・ 1973
   バイエルン国立歌劇場管弦楽団・合唱団
    ――噂のカルロス、ここに登場。――
 2.ベートーヴェン作曲
   交響曲第5番ハ短調『運命』 ・・・・・・ 1975
   バイエルン国立歌劇場管弦楽団・合唱団
    ――この奔流、巌をもおし流さんか!――
 3.ヨハン・シュトラウス作曲
   喜歌劇『こうもり』≪全曲≫ ・・・・・・ 1976
   ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
    ――いいぞ、カルロス、言うことなし。――
 4.ベートーヴェン作曲
   交響曲第7番イ長調 ・・・・・・・・・・ 1976
      ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
    ――誰だって信じざるを得ないこの天才。――
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現在、CDショップでは、「追悼!カルロス・クライバー」の
コーナーが設けられているところがありますが、上記の2と4が
セットになったCDがあり、これはお買いトクです。第5番と第
7番の従来のイメージを一新させる快演です。ジャケットは、添
付ファイルを参照してください。
                 −− [クライバー/04]

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2007年02月21日

●身体全体で音楽を表現するクライバー(EJ第1470号)

 ここまでの分析ではっきりしてきたことがあります。一見場当
たり的に見えるクライバーの指揮ぶりのウラに、膨大な資料によ
る曲に対する徹底的な究明と先人による曲の解釈について真摯な
研究があったということです。
 それでいて、本人はあたかも何の苦労もなく瞬時にして音楽が
湧き出るような姿勢を外部に対して取りたがったのです。これは
ひとつの曲を指揮するのにいろいろ苦労している自分を第三者に
知られることを恥と考える彼独特のシャイな態度といってよいと
思います。
 それにクライバーの指揮ぶりは「しなやかに舞い踊る」――こ
の表現に近いのです。それでいて、必要がないときは指揮をしな
い――指揮をしない方がよい結果を得ると確信している場合に限
られますが――全般的にいってクライバーの指揮は抜群の運動能
力を必要とするのです。全身を激しく動かして、自分のその音楽
に対する考え方をオーケストラに伝達する――そういう指揮ぶり
なのです。
 このようなタイプの指揮者が老境に差しかかったときはどうす
ると思いますか。体力と気力が落ちるということは、音楽を具現
する手段を奪われることを意味しています。いかにして自分のス
タイルを維持できるか――これがカルロスを苦しめることになる
のです。晩年の演奏で批評家から「不完全燃焼」を指摘されると
本人はそれに非常に悩んだのです。それが少しずつ指揮台から遠
のく結果となっていったのではないか――そう考えられます。
 カラヤンは、初期の頃はかなり身体を使って指揮をしていたの
ですが、円熟するにしたがってほとんど指揮棒を大きく動かさな
いようになってきています。体力の衰えを意識してやったかどう
かはわかりませんが、クライバーとは対照的です。
 それにクライバーは明らかに録音嫌いで通っています。これに
は一理あると思うのです。音楽の録音というのは、コンサートの
ように、全曲通した演奏を収録するのではなく、部分的に演奏を
入れ替えたり、つなぎ合わせたりして、作り上げるのです。部分
部分でたくさんのテイクを取り、そのベストであると思うものを
つなぎ合わせて曲にするのです。このようにして作り上げた音楽
を生で演奏した音楽と区別して「レコード芸術」と呼ぶのですが
クライバーは、そういうレコード芸術を嫌い、あくまで生演奏に
こだわったといわれます。
 しかし、録音や録画が残されているからこそ、後世の人がクラ
イバーの演奏を再現できるのです。とくに録画については、実際
に通して演奏されたものをそのまま収録しており、現在でもクラ
イバーの音楽がどのようなものであるかを知ることができます。
オペラが中心ですが、クライバーの場合はそういう貴重なビデオ
が多く残されており、その演奏を再現することができます。
 クライバーの音楽が一見天才の閃きのようなものに見えるもの
の、そこに緻密な計算というか、論理性があることを指摘する人
はたくさんいます。その中の一人であるマンフレッド・ホーネッ
ク氏――元ウィーン・フィルのヴィオラ奏者で、現スウェーデン
放送響首席指揮者――の意見をご紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  クライバーはやはり天才だと思います。彼の音楽に対する集
 中力、リハーサルへの取り組み方、演奏の快活さ、そのいずれ
 もが超一流で、誰と比べて云々ということではなく、ほんとう
 に素晴らしいものでした。
  クライバーには音楽に対する直感というものがあって「この
 部分のフレージングはこうやって進めていくのだ」という独自
 の指揮ぶり、音楽の進め方がありました。とくに凄かったのが
 音が変化していく部分、主部と主部との結合部分での音のもっ
 ていき方、そこでの彼の指揮は、鮮やかで息を飲むほどだった
 のです。しかし、それは勢いでやっているのではなく、極めて
 論理的なものなのです。   ――マンフレッド・ホーネット
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ホーネット氏は、何回もクライバーと演奏する機会を持った演
奏者ですから、クライバーの指揮の特徴は知り尽くしています。
彼にいわせると、クライバーの指揮は技術の問題ではなく、指揮
する音楽作品の本質というものを知り尽くしていて、タクトを通
してそれを伝えてくれるので、演奏者として非常に幸福だったと
いっているのです。
 クライバーは何か超然とした力でオケを引っ張るとよくいわれ
ます。しかし、ホーネット氏にいわせると、クラスバーの指揮が
きわめて論理的でオケの楽員として理解できることなので、彼の
指揮にオケ全体がついていける結果であるといっています。それ
は、指揮者が指揮する曲や音楽そのものに対する深い理解に裏付
けられており、これによって楽員はクライバーがどのように考え
ているか、何を考えているかが理解できる――そのようにホーネ
ット氏はいっています。
 このホーネット氏の言葉を聞くと、指揮者にとって音楽に対す
る研究がいかに重要かわかります。クライバーはそういう研究に
多大の時間をかける指揮者であり、それによって彼自身の音楽観
というものを作り上げているのです。
 クライバーは、彼自身の中にそういう研究から得られた豊かな
音楽感性があるので、音楽の流れを言葉ではなく、身体全体で表
現する能力を持っているのです。身体の動きの一つひとつが音楽
なのです。頭と指揮する音楽が離れていない――まさに一心同体
クライバーの身体全体が音楽といえるのです。
 確かにこういうタイプの指揮者が老境に差しかかると、体力的
でも、気力的にも若い頃のようにできなくなるのは当然です。身
体全体で音楽を表現できなくなるのです。その結果、悩み、苦し
み、強いプレッシャーに押しつぶされる――とくにオペラの公演
初日が鬼門だったようです。このようにして、クライバーは少し
ずつ指揮台から離れていったのです。そして、音楽観をめぐり、
周囲とトラブルを重ねることが多くなったといいます。
                 −− [クライバー/05]

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2007年02月22日

●クライバーグラムというものがある(EJ第1471号)

 カルロス・クライバーは、豊かな音楽的感性を持っていた人で
あったので、自分の芸術上の考え方が合わないと、公演をドタキ
ャンしたり、人間関係でトラブルを起こしたりしたのです。
 EJ第1466号で、カラヤンはクライバーを一度もベルリン
・フィルに招いていないと書きましたが、これは事実です。しか
し、ベルリン・フィルとしては、3回にわたりクライバーに出演
を要請し、クライバーは2回にわたりベルリン・フィルを振って
います。
 最初のオファーは今から20年ほど前の話なのですが、公演直
前になって突然ドタキャンされたのです。ドタキャンの理由は、
クライバーが郵送した「書き込み入りの楽譜」をベルリン・フィ
ル側が楽員に配布していなかったということだったのです。
 演奏曲目は、ベートーヴェンの交響曲第7番なのですが、クラ
イバーは総譜に演奏上の指示を書き込んでおり、その譜を最初の
リハーサルの一週間前にベルリン・フィル側に郵送しておいたの
です。しかし、最初のリハーサルの2日前にクライバーはベルリ
ン・フィルに電話を入れて、楽譜は楽員に配ってあるかどうか問
い合わせをしたのです。
 しかし、ベルリン・フィル側は、その楽譜を配っていなかった
のです。そのようなことをする指揮者はクライバー以外にはいな
いので忘れていたか、一週間前では作業が間に合わなかったのか
も知れません。「まだ整理できていない」――この返事を聞いた
とたんクライバーは「それなら、私は行きません」といったとい
うのです。
 些細なことといえばそれまでですが、クライバーにとってこれ
はとんでもないことなのです。彼は自分の芸術的条件を満たす状
況が整わないと、絶対に指揮をしないのです。それ以来、クライ
バーとベルリン・フィルとの関係は冷却してしまったのです。ベ
ルリン・フィル側は謝罪するとともに、その後何回も出演を要請
したのですが、いずれも拒否されています。しかし、それから、
10年ほど経過して、ドイツ連邦共和国ヴァイツゼッカー大統領
催のコンサートではその招待に応えて2回指揮をしています。
 クライバーがベルリン・フィルを振ったのは、あとにも先にも
この2回だけです。それは、ドタキャン事件の後遺症というより
も、心から尊敬し、畏怖していたカラヤンのレベルに自分はまだ
達していないのではないかということを非常に気にしていたこと
もあって、演奏を逡巡したということもあったといえるのです。
 1989年にカラヤンが亡くなったとき、その後任について協
議があったのですが、実はベルリン・フィルは全員一致でクライ
バーに声をかけたのです。多分引き受けてはくれないだろうとは
思ったそうですが、とにかく第一候補はクライバーだったという
のです。しかし、彼は引き受けなかったのです。
 ところで、ドタキャンの原因となったクライバーの書き込み譜
のことですが、これは「クライバーグラム」といって大変有名な
のです。クライバーは70年代においてこのクライバーグラムを
必ず使っていたのです。
 添付ファイルにクライバー直筆のクライバーグラムを付けてい
ます。これは、1976年10月24日に上演された楽劇『ばら
の騎士』の練習において楽員に配布されたものですが、次のよう
に書いてあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1幕、練習番号217から218にかけて。オーケスラの高
 い声部の旋律に合わせてフレージングすること。(221から
 222にかけても同じ)
 第2幕、練習番号19の1小節前。全員「ff」でお願いする。
 (楽譜の指定はf)
           心からの感謝を込めて/C.クライバー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 マゼールという大指揮者がいます。彼は頭の中に楽譜がコンピ
ュータのように詰まっていて、1音間違えてもすぐわかるという
指揮者です。しかし、クライバーは少しぐらい間違えても、自分
の音楽のイメージに合致していれば何もいわないのです。
 クライバーはその音楽のイメージをいろいろな表現で楽員に伝
えています。たとえば、ベートーヴェンの交響曲第7番の演奏に
ついて、クライバーは次のように楽員に説明しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  この曲を演奏するやり方は100以上あるでしょう。しかし
 実際には2つの選択肢しかありません。1つは、びっくり箱を
 開けた途端にあなたに向って音が次々と襲ってくる状況です。
 もうひとつは、波がぶつかるような音の連続です。
                 ――カルロス・クライバー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クライバーグラム――実はこれは父エーリッヒ・クライバーの
影響なのです。エーリッヒはカルロスに正規の音楽教育を受けさ
せていませんが、オーケストラのステージ・マナーについてはよ
くカルロスに話していたそうです。
 コンサートが終了し、指揮者が拍手で舞台に迎えられると、指
揮者は演奏が素晴らしかった楽員を一人ひとり立たせて褒めるこ
とがあります。エーリッヒはそれに反対なのです。彼は立たせる
のであれば、全員を立たせるべきであり、特定の奏者を立たせて
はならない――あんなのは、ドック・ショーだとよくいっていた
そうです。
 そのことの是非はともかくクライバーはこれを絶対にしていな
いそうです。それから傑作なのは「指揮者はメガネをかけるな」
という教えです。
 クライバーは目は悪いのですが、コンタクトレンズをつけてい
たのです。メガネをつけていると何かの拍子に手が当って飛んで
しまう可能性があるからです。クライバーは冗談にメガネをつけ
ない理由を「メガネをつけるとサバリッシュに似てしまうから」
といっていたそうです。      −− [クライバー/06]

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2007年02月23日

●『天国のトスカニーニ』事件(EJ第1472号)

 カルロス・クライバーについて書き出してから今日で7回目に
なります。クラシック音楽に関心のない人にとってはつまらない
と感じるかも知れませんが、話題の指揮者の話ですから時事問題
として知っておいても損はないと思います。
 12日までの9回続ける予定ですが、きちんと読んでいただく
と、クライバーについて生半可のクラシックファンよりもずっと
詳しい知識を持つことができるようになります。
 最近のEJは「作品型情報」を目指しておりまして、ひとつの
テーマが終わると、そのすべてをプリントしておくと、価値ある
情報になると思います。また、音楽好きの人に対して転送してあ
げたら、きっと喜ばれると思います。
 セルジュ・チェリビダッケという指揮者をご存知でしょうか。
 この人は20世紀最後の巨匠といわれた指揮者で、終戦後のベ
ルリンフィルを再建し、首席指揮者として400回以上の演奏会
を開催して、戦犯容疑で演奏活動を禁止されていたフルトヴェン
グラーの名誉回復に尽力した人です。
 ベルリン・フィルというと、すぐカラヤンが頭に浮かびますが
基礎を築いたのはフルトヴェングラーであり、戦後のドイツの混
乱期に楽団を再建させたのは、このチェリビダッケなのです。
 カラヤンは、あのヒンデミット事件で演奏活動を停止されたフ
ルトヴェングラーに代わって、登場したナチス寄りの指揮者――
そういってよいと思います。このカラヤン――終戦後はチェリビ
ダッケが400回指揮をする間にたったの4回しかベルリン・フ
ィル指揮をしていないのです。当然、チェリビダッケはカラヤン
のことをボロクソにいうことになります。
 ところがカルロス・クライバーは何度もいうようにカラ