2007年03月29日

●三者謀議のフィクサーは一体誰か(EJ第915号)

 長年『週刊ポスト』誌に井沢元彦氏が「逆説の日本史」を連載
しています。今週発売の『週刊ポスト』2002年8月9日号は
ちょうど「本能寺の変」を取り上げています。井沢氏の推理はあ
とで述べるとして、「本能寺の変」の秀吉・光秀・家康の三者謀
議説についてもう少し述べることにします。
 この三者謀議が仮にあるとした場合、誰がどのようなかたちで
それをまとめたかについて考えてみます。もちろん、本人たちが
会うわけにはいかないので、フィクサー的存在の人物がまとめた
ものと思われますが、それは一体誰だったでしようか。
 その仕掛人として考えられるのは安国寺恵瓊です。安国寺恵瓊
の願いはあくまで毛利家の安泰なのですが、後継者の輝元の器量
が今ひとつであり、それを考えると毛利家にとって織田信長は、
もっとも危険な存在なのです。その点、秀吉、光秀、家康はいず
れも苦労人であり、誰が天下をとっても外交政策で毛利家の安泰
は確保されると読んでいたのです。
 安国寺恵瓊はいわば毛利家の外交官ですが、一方で京都東福寺
の高僧でもあり、京都に滞在することが多かったのです。毛利家
代表として秀吉との接触も多く、信頼関係も生じていたし、光秀
との交流もあったのです。
 それでは、フィクサー役は安国寺恵瓊であるとして、秀吉、光
秀、家康の3人の外交官は誰だったのでしょうか。
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      豊臣秀吉 ・・・・・ 黒田官兵衛
      明智光秀 ・・・・・ 斉藤 利三
      徳川家康 ・・・・・ 本多 正信
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 安国寺恵瓊の三者への説得のポイントは、信長の危険さを訴え
て恐怖感を煽り、織田家譜代の大名である柴田、丹羽、滝川は別
として、信忠の代になると、秀吉、光秀、家康は織田家にとって
危険な存在になると説いたのです。
 しかし、その程度のことで3人が話に乗ってくることは考えら
れないと思います。歴史研究家の大浦章郎氏によると、安国寺恵
瓊は、信長亡きあとの処置を含めた具体的な提案をして3者を納
得させたといっているのです。
 その提案とは、朝廷に関しては現在の象徴天皇制をとり、その
下に天下人は、ちょうど大統領のようなかたちで実質的な権限を
握るという案です。天下人には一定の任期を決めて、年齢順に、
光秀、秀吉、家康の順でどうかというものです。勢力圏としては
中央の京都は光秀、姫路以西は秀吉、駿河以東は家康ということ
ではなかったでしょうか。
 この場合、実行犯となる光秀の背後には、闇の商人といわれる
堺−納屋衆がおり、光秀に情報を提供し、支援したと考えられま
す。堺−納屋衆にとっても、信長はきわめて危険な存在であり、
消えてもらうことは大きなメリットがあったといえます。そこで
堺−納屋衆は、光秀の企てには情報提供など、いろいろ支援をし
たのです。その中心人物は、千利休その人なのです。
 千利休は、信長の信頼が厚く、茶の湯の師匠的存在としてつね
に信長の身近にいたのです。そのため、信長の行動予定や軍勢の
準備態勢などについても情報を掴んでいたと考えられます。
 「本能寺の変」は、6月1日に信長が100人ほどの手勢で、
ほとんど無防備に近い本能寺に宿泊するという行動がなければ起
こり得なかったといえます。信長は、6月3日には大軍を率いて
四国征伐に向かう予定になっていたからです。したがって、6月
2日に信長が京入りしていたら、明智軍はどうすることもできな
かったと考えられるからです。
 なぜ、信長は6月29日に安土を出てわずかな手勢で本能寺に
泊まったかというと、6月1日に茶会を予定していたからです。
そして、その茶会の日を決めるのに影響力を持っていたのは、千
利休だったのです。利休は本能寺の茶会の席で博多の豪商の鳥井
宗室を信長に引き合わせているのです。
 その宗室は5月頃から京都に滞在していたのに、1日に信長に
会うと、次の日には京都を出立し、博多に帰っているのです。一
説によると、宗室は「楢柴」という茶入れの名品を持っており、
信長はそれを見ることを楽しみにしていたというのです。
 いずれにせよ、信長が5月29日には本能寺に入り、1日に茶
会を開き、その日は本能寺に泊まっているのですが、そんな重要
な情報がどのようにして光秀に伝わったのかというと、堺−納屋
衆が光秀に情報を流していたものと考えられます。とくに29日
は愛宕百韻が開かれており、その主催者の連歌師里村紹巴は利休
や堺衆とごく近い間柄だったのです。光秀に情報が流れるルート
は間違いなくあったのです。
 さて、冒頭の井沢元彦氏の推理ですが、信長が亡くなって一番
トクしたのは、四国王となりつつあった長曾我部元親であると指
摘しているのです。元親と信長の関係は、かつてはよかったので
すが、元親が四国統一を進めるにつれて信長が一方的に考え方を
変えたのです。
 天下統一を目指す信長にとって、あまりに巨大な勢力は潰して
おくに限るのです。そこで、一転して6月3日に四国征伐に出発
する予定だったのです。予定通りに出発していたら、長曾我部家
は間違いなく滅亡していたはずです。
 実は、信長政権において対長曾我部外交を担当していたのは光
秀であり、光秀はそのために重臣斉藤利三の妹を元親に嫁がせて
いたのです。その間に生まれたのが信親です。
 したがって、信長の心変わりは、自分の顔を潰されたばかりで
はなく、斉藤利三の妹とその子である信親も殺されることになる
――そんなことはさせられないと、光秀は斉藤利三と相談をして
決起したのではないかと、井沢氏は推理しているのです。
 ケネディ大統領が暗殺されたとき、犯人としてオズワルドが直
ちに逮捕されましたが、そのオズワルドは連行中に今度はルビー
という男に射殺されています。本能寺の変も国のトップの暗殺事
件ですが、何かふんい気が似ていると思います。
                 −− [本能寺の変/03]
posted by ここから at 04:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 本能寺の変 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする