2007年03月30日

●朝廷の手足として動いた兼見と前久(EJ第916号)

 光秀・秀吉・家康の三者共謀説で説得力がないのは、天正10
年6月2日の時点で、家康が、信長とともにもっとも危険な立場
に置かれていたという点です。いや、信長よりも家康の方が危険
な立場にいたといえます。というのは、6月1日〜2日にかけて
家康は、裸同然のわずかな護衛を連れて堺にいたからです。
 もし、家康が、信長が討たれることを事前に知っていたならば
そんな危ないことはやらないであろうというところから、家康シ
ロ説が出ているのです。もっともこの説には異論があるのですが
これについてはあとで述べます。
 光秀はむしろ三者共謀というよりも、朝廷側と組んでいたとい
う説があるのです。というのは、光秀は正真正銘の勤皇主義者で
あり、信長の、朝廷から皇位を取り上げようとする野望が明らか
になったことに反発して、それを阻止するために相当周到な計画
の下に決起した――そう考えられるからです。
 光秀は天正7年7月に丹波を平定したのですが、そのとき朝廷
の御料所であった山国荘を朝廷に返しています。朝廷はこれを大
いに喜んで、勅使を下向させ、賞詞と下賜品を光秀に与えている
のです。これは、官位のない陪臣に対する措置としては異例のこ
とだったのです。
 光秀のこの考え方のバックボーンは「天下はすべて天皇の土地
である」ということにあります。しかし、信長は天下(自分のこ
と)を朝廷の上に置いていたのです。実は、本能寺の変が起きる
1年ほど前から、信長と光秀はこの考え方をめぐって深刻な対立
を繰り返していたのです。
 信長は自らの意のままになる第二朝廷を作ろうとし、ときの正
親町(おおぎまち)天皇に譲位を迫ったのです。譲位は二度行わ
れましたが、天皇はいずれも拒否しています。しかし、朝廷の危
機感は相当大きいものだったと考えられます。
 天正10年が明けると、信長は自ら生きた神体となる自己神格
化を宣言しますが、これは明らかに皇位簒奪計画と連動する政治
的行為といえます。5月になると、朝廷はその時点ですべての官
位から離脱していた信長に対して、「朝廷の三職(さんしき)推
任」を要請します。関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかへの
就任要請です。就任させることによって、朝廷の秩序につなぎと
めようとしたわけです。しかし、信長はあざ笑うようにそれを拒
否します。
 それに加えて、信長は毛利征伐の号令を発するのです。毛利家
は元就以来の勤皇の大名であり、ときの正親町天皇が即位できた
のも毛利家の献金があったからですし、天皇が信長の譲位要求を
つっぱねられたのも毛利家が後ろ楯だったからなのです。信長は
その天皇家の後ろ楯である毛利家を討とうと宣言しているのです
から、まさにのど元に匕首をつきつけたに等しいのです。
 「信長を何とかしなければ朝廷が危ない」と考えた正親町天皇
は、皇太子の誠仁(きねひと)親王を中心に信長暗殺の裏工作を
はじめるのです。そのとき朝廷に一番近いところにいた信長側の
武将は光秀だったというわけです。この工作で誠仁親王と光秀と
の間に立って動いたのが次の2人です。
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   吉田兼和(のちに兼見) ・・・ 従三位・神祇大副
   近衛前久 ・・・・・・・・・・ 前関白・太政大臣
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 兼和(以下、兼見)は、吉田神道の総帥であり、神官の頂点に
立っていた人です。この兼和の役割は、朝廷内の「反信長神聖同
盟」と光秀を結びつけるオルガナイザーとして機能することでは
なかったかと思われます。この人は本能寺の変の前後に非常に怪
しい動きをしているのです。
 近衛前久は、「反信長神聖同盟」の盟主的存在であり、本能寺
の変では重要な役割を果たしているのです。近衛家というのは、
藤原北家の流れを汲んだ五摂家――近衛、鷹司、九条、二条、一
条家――の筆頭という家柄であり、前久は19歳のときに既に関
白の職についているのです。
 近衛前久という人は、公家でありながら自ら軍勢を率いたりす
る異色の人として有名です。どちらかというと、信長のためにい
ろいろ尽くした人なのです。石山本願寺との和睦のときも、前久
自身が軍勢を率いて、現代風にいうとPKO部隊のような形で一
向一揆が退却するのに立ち合うなどしていますし、薩摩に下って
島津家との外交交渉をやるなど、表面的には、信長の手足として
働いているのです。ところが、本能寺の変の前後では、兼見と同
様に非常に怪しい動きをしているのです。
 吉田兼見の怪しい行動とは、明智軍が本能寺の信長と二条御所
の信忠を討ち果たしたあと、光秀は大津に向かうのですが、その
途中で吉田兼見と何やら密談していること。そして、6月6日に
安土城にいた光秀に兼見は勅使として下向しており、誠仁親王が
朝廷をくれぐれもよろしくと伝えた事実。光秀はこのとき親王に
銀500枚を献上していることなど、たくさんあります。
 本能寺の変の前には、兼見は信長にべったりで、年中京都奉行
であった村井貞勝のところに出入りしており、信長貞勝を通じて
出した要求にいろいろと便宜を取り計らったりしていたのです。
その一方で光秀とも懇意でよく会っています。
 天正10年5月3日に兼見は、親王の信長への推挙によって位
が上がっているのですが、6月1日に信長が本能寺にきたのにも
かかわらず、表敬の挨拶に行っていないのです。
 近衛前久にも怪しい行動はたくさんあります。そのさいたるも
のは、変が終わった6月7日に誠仁親王の居所で「信長打倒計画
成功」の祝宴に嫡子の信基と一緒に参加していることです。
 それに、前久は、二条御所に隣接して居宅を信長から与えられ
ていたのですが、6月2日に宿舎の妙覚寺から二条御所に立てこ
もった信忠が明智軍に包囲されたとき、明智軍は前久の屋形の屋
根を利用して鉄砲や弓矢を射掛けて火を放っているのです。
 そして、変のあと兼見は秀吉に、前久は家康のところに身を預
けているのです。やはり、この二人とつながっているのです。
                 −− [本能寺の変/04]
posted by ここから at 05:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 本能寺の変 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする