2007年04月02日

●仕組まれていた家康の伊賀越え(EJ第917号)

 光秀、秀吉、家康が直接的に共謀して信長を討ったのではない
にせよ、光秀の信長暗殺の情報を秀吉と家康は事前に知っていた
ことは間違いないと思います。
 光秀がある日突然に思いついて本能寺を襲ったのではなく、昨
日のEJで述べたように、朝廷の内部の暗殺プロジェクトにより
コトが動いたとすれば、つね日頃から情報収集の重要性を熟知し
ている秀吉と家康の耳に入らないはずがないからです。
 本能寺の変が起こった天正10年6月2日――秀吉は備中高松
城(岡山)を攻めていたし、家康は30人ほどの家臣と一緒に京
見物の途中で泉州・堺(大阪府南部)にいた――これは、信長暗
殺に関しては絶対的なアリバイであるといえます。
 しかし、彼らは信じられないほど素早く情報を入手すると、秀
吉は電光石火、毛利と和睦を結んで姫路に「大返し」をし、家康
は選り抜きの家臣にガードされて、伊賀超えをして岡崎に戻って
いるのです。これらはいずれも、かなり用意された行動であり、
とっさの判断でやれることではないのです。そこには、大きな疑
惑があります。
 家康のケースから考えてみることにします。
 天正10年3月のこと、武田氏が滅亡したことにより、家康は
駿河(静岡県)一国を恩賞として与えられます。この恩賞のお礼
を申し述べるために、家康は武田遺臣の穴山梅雪と一緒に安土城
を訪れたのです。天正10年5月15日のことです。こういう目
的の旅行ですから、あまり大軍を引き連れてくるわけにはいかず
ごく少人数の護衛しか連れてこれなかったわけです。
 安土には6日間滞在し、21日に信長に京都遊覧をすすめられ
京都に入るのです。29日には堺まで足を伸ばし、6月1日まで
松井友閑や今井宗久などによって茶の湯の接待を受けます。
 ところが、それまで悠然と旅を楽しんでいた家康は、6月2日
朝、ひそかに重臣本多忠勝を京に向けて先に出発させたあと、帰
国に先立ち、もう一度信長に会うため京に行くといって急いで堺
を出発してしまいます。
 本多忠勝は、途中で徳川家御用達を務める京都の豪商茶屋四郎
次郎が馬を走らせてくるのに出会い、信長敗死を知って堺に引き
返します。途中で家康一行と出会った本多忠勝と茶屋四郎次郎は
同行の服部半蔵と相談のうえ、伊賀越えをして岡崎に戻るコース
を選択してこれを見事に成し遂げるのです。
 後年家康は、この伊賀越えは「九死に一生の危険な逃避行」と
いっているのですが、これにはウソがあります。ひとつには、本
多忠勝が家康と一緒にいることです。本多は徳川家の軍事を担当
する指揮官であり、本来であれば、動乱の余韻覚めやらぬ甲斐に
にらみを効かせるためには不可欠な人物です。
 他に人がいないわけではなく、本多忠勝をあえて物見遊山の旅
に連れてきたのは、この旅が非常に危険であることがあらかじめ
家康には分かっていたからです。
 それに、服部半蔵も物見遊山の旅にはふさわしくない人物であ
るといえます。服部半蔵といえば、伊賀で圧倒的な勢力を持つ忍
びの衆であり、伊賀越えをする場合、彼ほどの適任者はいないは
ずです。なぜ、服部半蔵が同行していたのでしょうか。最初から
そういう事態が起こることを予測していたのでしょうか。
 徳川家は家康の祖父松平清康の代から伊賀忍者と縁が深かった
のです。まして、天正9年には信長による伊賀攻めで多くの忍者
が殺戮されており、徳川家に投じる伊賀忍者は増えていたといい
ます。つまり、服部半蔵についても信長は家康とともに家族殺し
の仇敵であり、「信長憎し」の感情に固まっていたのです。
 甲賀忍者についても、元亀元年には信長の甲賀攻めを家康が中
止させたといういきさつから、甲賀忍者は徳川家に親和的である
といわれているのです。
 こういう事情から伊賀越えの途中、半蔵の呼びかけに応じて、
たちまち三百余人の伊賀・甲賀忍者が馳せ参じて家康の護衛に当
たったといわれます。何のことはない――伊賀越えは家康にとっ
て、最も安全性の高い避難路だったのです。つまり、少人数でも
大丈夫な備えをしていたのです。ついでに述べておくと、この服
部半蔵の遠祖は実は渡来系氏族であり、具体的にはあの秦氏なの
ですが、ここではあえて詳しくは述べないことにします。
 なお、家康と同道していた武田の遺臣穴山梅雪は、家康より少
し遅れて同じルートをたどり、宇治田原に向かったのですが、途
中一揆に襲われて殺害されています。もっともこれは表の話であ
り、梅雪の挙動に不審なものを感じた家康が、半蔵に命じて殺さ
せたというのが正しいようです。
 さて、家康は、岡崎に戻ると、直ちに陣触れを領内に回し、光
秀討伐軍を組織するのですが、それに10日を要し、6月19日
にやっと出発して尾張(愛知県)の鳴海まで進出します。そこで
秀吉が6月13日に光秀を討ち滅ぼしてしまったということを聞
くのです。情報に強い家康といえども、秀吉の「大返し」は予測
できなかったことになります。
 家康は直ちに撤兵し、本城の浜松城に戻るや甲斐(山梨県)と
信濃(長野県)両国を自己の支配下に組み込むことに着手するの
です。この両国平定は天正11年中に完了し、甲斐一国と信濃の
南半分を領国化し、5ヶ国の太守になることに成功します。
 しかし、家康がそうしている間に、秀吉は手際よく主家を盗み
取って、30ヶ国の大大名になり、朝廷権威を巧みに利用して、
豊臣体制という中央集権機構を作り上げてしまったのです。これ
は、明らかに家康の敗北といえます。
 天正12年になって、信長の次男である信雄(のぶかつ)が秀
吉と事を構え、家康を頼ってきたのを受けて、家康は挙兵して秀
吉に立ち向かいます。この小牧・長久手の戦いにおいて、家康は
総力戦では秀吉に及ばないことを悟ることになるのです。
 光秀によって信長が暗殺されることを家康とともに知っていた
秀吉が、その直後に見せた「大返し」にはどのようなカラクリが
あったのでしょうか。来週はその秘密に迫ります。
                 −− [本能寺の変/05]

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2007年04月03日

●秀吉の大返し/1日80キロの謎(EJ第918号)

 本能寺で信長父子が光秀に暗殺されたという情報が岡山にいた
秀吉に届けられたのは、諸説はあるものの、天正10年6月3日
の「それほど遅い時間ではない夜」と考えてよいと思います。
 その夜秀吉はかねてから親交のあった安国寺恵瓊をに呼び出し
飲める条件を示して毛利側との和睦の交渉を依頼します。この時
点で「信長死す」という情報は、毛利側にはまだ届いていなかっ
たはずです。事前に和睦の下交渉は行われていたのです。
 とはいうものの、清水宗治が治める高松城は、5月8日から水
攻めにあって落城寸前であり、まして信長が大軍を率いてやって
くる直前でもあるのに和睦を結ぶ状況ではなかったのです。安国
寺恵瓊は、すべてを知ったうえで秀吉の意中を汲み取り、和睦交
渉をやったのです。秀吉と安国寺恵瓊はつながっていたと考える
べきです。
 毛利との和睦が成立し、秀吉が岡山を離れたのは、6日の未の
刻(午後3時)です。秀吉としては和睦は成立したものの、信長
の死を知った毛利がどう出るか慎重に様子をみていたのです。そ
して毛利軍に動きがないことを知ると、秀吉は驚異的なスピード
で上方に引き返します。
 これは後世「秀吉の大返し」として話題になるのですが、どの
くらいのスピードで引き返したのでしょうか。
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 ●6日午後3時「高松城」を出発
  同日6日夜「沼城」に到着 ・・・・・・ 約26キロ
 ●7日早朝「沼城」を出発
  7日夜「姫路城」に到着 ・・・・・・・ 約80キロ
 ●9日早朝「姫路城」を出発
  11日午前8時「尼崎」に到着 ・・・・ 約80キロ
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 問題は距離です。本によってそれぞれ違うのですが、高松城か
ら姫路までは27里――約106キロあるといわれています。秀
吉は、高松城を6日の午後3時頃出発し、その日のうちに沼城に
入り、そこで一泊します。そこまでは、普通のスピードです。し
かし、7日の早朝に沼城を出発した秀吉軍はその日のうちに姫路
城に入っているのです。
 しかも、7日は朝から暴風雨であり、数ヶ所の大河、洪水を乗
り切って姫路城に到着したのです。その日の行程は約80キロと
いいますから、信じられないスピードといえます。
 このときの秀吉の軍勢は約2万5千人――これほどの大部隊に
なると、あまり早くは移動できないのです。強行軍を得意として
いた旧日本陸軍については次のデータがあります。
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  大部隊  ・・・・・・・・ 一昼夜20〜24キロ
  騎馬大隊 ・・・・・・・・ 一昼夜40〜60キロ
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 つまり、旧陸軍でさえ3日かかる距離を秀吉軍はたった1日で
踏破してしまっているのです。こんなことはとても信じられない
ことです。おそらく秀吉を中心に、数人の供回りの者が先行して
ひたすら姫路に向かったのでしょう。それにしても凄いスピード
ですが、秀吉としてはここ一番とばかり踏ん張ったのです。
 しかし、重い具足を身につけた兵隊たちは当然遅れてしまいま
す。それらの兵隊は後から三々五々姫路にやってきています。中
には、13日の山崎の戦いに間に合わなかった兵隊も少なくない
といわれています。
 兵隊が到着するのを待つということもあり、秀吉は次の8日一
日は姫路城で過ごします。そして、姫路城に蓄えてある金銀や兵
糧米をすべての家臣たちに分配してしまうのです。もちろん籠城
の意思はなく、姫路にはもう戻らないという意思表示です。
 秀吉軍が姫路城を出発したのは9日の早朝です。秀吉としては
もう少し姫路城で人馬を休ませるつもりでいたのですが、8日の
酉の刻(午後4時)にある緊急情報がもたらされたので、予定を
前倒しして姫路城を出発したのです。その情報とは、大坂にいる
信長の遺児/信孝を光秀が襲って、切腹を迫っているというニセ
情報です。
 しかし、姫路から尼崎までの秀吉軍の行程は、もちろん通常よ
りは早いものの、1日40キロのペースで軍勢を整えながらの進
軍となるのです。9日夜には明石到着。10日の午後には兵庫。
そして11日の午前8時に尼崎に到着しています。ここまでの間
に多くの兵は追いつき、軍勢はほぼ整ってきていたのです。
 世にいう「秀吉の大返し」は、事前に周到な計画が立てられて
います。1日で80キロという凄いスピードとはいうものの、そ
れは秀吉と数人の供回りの者たちが踏破したスピードであり、秀
吉軍全体がそのスピードで動いたわけではないのです。しかし、
秀吉は姫路城に少し長く滞在することによって、ちゃんと時間を
調整して軍隊が追いつくのを待っているのです。
 しかし、いかにも全軍が姫路に結集したようにウワサをばらま
いています。これで、光秀をはじめとする各武将は秀吉軍が怒涛
のように尼崎めがけて進軍してくると錯覚するわけです。
 それだけではないのです。秀吉は畿内と近畿にいる味方と考え
ている諸将――これについてはあとで述べる――に対して書状を
送り、秀吉軍とともに光秀征伐戦に参戦するよう呼びかけ、かれ
らの参着を待っていたのです。光秀討伐軍は少しでも多い方がよ
いからです。
 秀吉が、事前に信長が暗殺されることを知っていたのではない
かと疑われている理由としては、高松城からのいわゆる大返しに
あるのではなく、畿内や近畿にいる諸大名に対して事前に何らか
の工作をしていたのではないかという点にあります。
 そういう工作があればこそ、本来なら光秀につくはずの諸将が
ことごとく秀吉軍についてしまったのです。秀吉はこれを計算に
入れて、ひたすら高松城から尼崎へと派手な演出を試みながら進
軍してきたのです。        −− [本能寺の変/06]

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2007年04月04日

●信長暗殺/細川藤孝フィクサー説もある(EJ第919号)

 天正10年6月2日に信長父子の暗殺に成功した明智光秀――
不思議なことにその直後の光秀は非常に時間を無駄に使っている
ように思います。
 近江坂本や安土、山崎北方の勝龍寺城、天王山、淀城などを右
往左往しただけで、天下取りのために何ら有効な手を打っていな
いのです。つまり、クーデター成功後に何をどうするかというビ
ジョンが何もないのです。
 これに対して秀吉は、まるでそれを予測していたかのように、
きびきびと的確に行動しています。そういうところから、実行犯
は光秀であることは動かないとしても、秀吉仕掛け人説が根強く
あるのです。
 光秀の誤算といえば、もともと光秀の組下大名であった次の大
名がすべて光秀に味方しなかったことです。
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     丹後衆 ・・・ 細川藤孝 倅 忠興
     大和衆 ・・・ 筒井順慶
     摂津衆 ・・・ 高山重友 中川清秀
     兵庫衆 ・・・ 池田恒興 倅 元助
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 これらの大名のうち、細川藤孝は山崎の戦いに参加していない
ものの、他の大名はすべて秀吉に味方しているのです。これにつ
いて、やれ光秀の人間性に問題があるとか、面倒見が悪いとか、
ケチであるとかいろいろいわれていますが、光秀はけっしてその
ような人物ではないのです。これは明らかに裏切りです。
 とくに不可解なのは細川藤孝/忠興父子です。なぜなら、細川
家と明智家は強いつながりがあるからです。織田信長に将軍足利
義昭を引き合わせたのは光秀なのですが、そのとき足利将軍家の
重臣だった細川藤孝も信長に紹介し、仕えるようになったからで
す。そして、その後藤孝の息子忠興は、信長の命により、光秀の
娘玉を正室に迎えているのです。この玉が、有名な「細川ガラシ
ャ」なのです。
 しかも、藤孝は里村紹巴の主宰する連歌会のメンバーでもあり
光秀の企てを知っていたはずです。それに運命の5月28日の愛
宕百韻にも藤孝は出席する予定だったのに急遽欠席しています。
これだけの関係ですから、光秀としては当然味方してくれると信
じていたと思います。
 しかし、細川父子は本能寺の変を知ると、髻を切って信長に弔
意を示し、藤孝は家督を忠興に譲って細川幽斉と名乗ります。忠
興は、正室玉を離別し、光秀に使者を送って義絶を通告している
のです。光秀としては、手の平を返したような細川父子の態度に
がくぜんとしたことでしょう。
 それどころか、光秀はこの細川藤孝に信長暗殺をそそのかされ
たという説があるのです。これについて『信長権力と朝廷』(岩
田書院刊)の著者であり、歴史学者の立花京子氏は、作家/安部
龍太郎氏との対談で次のようにいっているのでご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 安部:そうすると、やはり藤孝がフィクサーとして動いたん
    じゃないか、と。
 立花:そうなんです。それに、秀吉の大返しにしても、あれ
    は素早すぎると皆さんおっしゃいますね。だから、秀
    吉もある程度知っていたのではないか。本願寺から知
    らされたとか、藤孝が知らせたんじゃないか、ともい
    われていますが、ひょっとすると、これはまだまった
    く私の推測ですけど、光秀は、秀吉も一緒にやるから
    というようなことを言われていたのではないでしょう
    か。(『真説/本能寺の変』より。集英社刊)
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 この立花氏の説は改めて取り上げますが、その説では信長暗殺
の意外な黒幕の存在を示唆しています。
 さて、池田恒興は伊丹城、高山重友は高槻城、中川清秀は茨木
城のそれぞれの城主ですが、この中では一番大身である池田恒興
が軍事的統率者になります。その池田恒興は秀吉寄りであるとい
うこともあり、そのため、秀吉は大返しの途中、恒興や清秀に手
紙を書き、参戦を呼びかけています。NHK大河ドラマ「利家と
まつ――加賀百万石物語」でも、池田恒興の秀吉へのベッタリぶ
りがよく描かれています。
 筒井順慶については「洞ヶ峠」(ほらがとうげ)という有名な
ことばが残っています。筒井順慶は光秀に大恩があるにもかかわ
らず、光秀からの要請に答えなかったのです。実際はどうしたら
いいかわからなかったのです。業を煮やした光秀は洞ヶ峠(京都
府八幡市)まで出陣し圧力をかけたのですが、筒井順慶は動かず
このとこから「洞ヶ峠」は「日和見」の代名詞となったのです。
 これらの池田、細川、高山、中川、筒井の諸将は、もともと信
長の命により、光秀とともに中国の秀吉支援に赴く準備をしてい
たので、光秀にも秀吉にも参戦できる状況にあったのです。秀吉
としては、ぬかりなくすべてに手紙を送りけん制したのです。
 秀吉は大返しの途中、中川清秀に、次のような手紙を送ってい
ます。
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 いま京都から届いた確かな情報によれば、上様ならびに殿様
 (信忠)は、光秀の襲撃を切り抜けて近江膳所ヶ崎に逃れ、
 ご無事だとのこと。まずもって、めでたいことである。
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 もちろん、ウソの情報です。しかし、情報が混乱しているあの
ときの状況で、この情報を聞いて秀吉に乗った方がトクと考えた
武将は多いと思います。
 しかし、この情報は単なるデタラメではなく、信長の遺体が発
見されないからいえることです。そうすると、秀吉は蜂須賀など
の乱破を使い、家康の遺体をひそかに本能寺から運び出した疑い
は濃厚になります。        −− [本能寺の変/07]

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2007年04月05日

●八切止夫意外史は注目に値する(EJ第920号)

 NHKの大河ドラマ「利家とまつ――加賀百万石物語」を見て
「本能寺の変」に興味が湧き、EJに書くことを前提に多くの本
や資料を真剣に読んでみました。
 そして、理解できたことは、現在われわれが知っている本能寺
の変は、『川角太閤記』や『信長公記』など、後年の権力者秀吉
の立場から書かれた文書をベースとしているという事実です。要
するに、秀吉にとって都合が悪いことはすべてカットされ、内容
がねじまげられており、真実は闇の中になっています。歴史とは
そういうものです。
 実は5月のはじめのことですが、次のような本を購入したので
す。そのときは、本能寺の変をEJで取り上げることはぜんぜん
考えていませんでした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   八切止夫著『信長殺し、光秀ではない』作品社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 著者の八切止夫氏は故人であり、あとでわかったことですが、
歴史の世界で奇書といわれているものの復刻版だったのです。八
切氏には「八切意外史」全12巻というのがあるようで、上掲書
はその第1巻目の本だったのです。今から30年前の本ですが、
当時ベストセラーになったそうです。
 しかし、この本は話がいろいろなところに飛び、悪くいえば支
離滅裂で、良くいえば奇想天外――何をいいたいのかよく分から
ない本なので、途中で読むのを止めてしまったのです。しかし、
本能寺の変についてEJで取り上げるようになって、本気で読み
直して見ると、非常に重要なことが書かれていることがわかって
きたのです。
 今週発売の『週刊ポスト』8月16日号で、井沢元彦氏も取り
上げているのですが、八切氏はその本の中で、当時の鉄砲に使う
火薬の原料「硝石」についてふれているのです。多くの史書では
鉄砲という銃器の製造については言及しているものの、それに使
う火薬がマカオからの輸入に依存していた事実がまったく書かれ
ていないのです。
 「パソコンはソフトがなければタダの箱」といわれますが、鉄
砲も「火薬がなければタダの鉄棒」なのです。種子島が鉄砲の産
地であるとか、紀州の雑賀衆が鉄砲を量産していたという銃器の
生産の話はよく出ますが、火薬の話、ましてその原料の話などは
八切氏以外、誰もいっていなかったはずです。
 八切氏によると、当時の火薬の配合は、75%が輸入硝石(当
時の言葉では「煙硝」)に頼っていたのです。しかし、この硝石
は、あたかもマカオが原産地であるように見せかけていますが、
正しくはマカオは中継地に過ぎないのです。
 当時のポルトガルの商人は、火薬を輸出するに当たって、ヨー
ロッパやインドの払下げ品を集めてきて、マカオで新しい樽につ
めかえさせて、日本に輸出していたのです。そして、日本にはマ
カオが硝石の産地のように見せかけていたのです。信長はこれに
完全に騙されていて、彼は火薬確保のためにマカオを本気で攻め
落とすことも視野に入っていたと考えられます。
 当時マカオはポルトガル領であり、火薬商売だけでなく、ポル
トガルのカトリックのイエズス会の宗教セールスマンが宣教師と
してどんどん日本に入ってきていたのです。当然彼らは火薬を布
教の道具として使ったのです。当時は良質の火薬がなかなか入手
できなかったので、火薬欲しさに切支丹に帰依した大名も少なく
なかったのです。
 さて、井沢元彦氏によると、30年前は八切氏以外に火薬の原
料――硝石についてふれた歴史家はいなかったのに、現在はその
ことに触れていない人はいないと述べています。しかし、現在の
歴史家はことごとく八切氏を無視し、参考文献や引用資料に八切
止夫の名前はないのです。はじめは八切氏の説をこきおろしてお
きながら、それがどうやら正しいとわかると、だまってそれを引
用する――日本の歴史学者の悪いクセです。
 さて、八切氏は本能寺の変について意外なことをいっているの
です。2日の早暁に丹波の軍勢とみられる約1万3千の兵が本能
寺を取り囲んだのは事実なのですが、これを日本側の史料では、
予想外のこと――すなわち「異変」としているのに対し、本能寺
のすぐ近くにあった南蛮寺のイエズス会のポルトガル人の宣教師
たちは「通常の出来事」と考えていたというのです。
 というのは、信長はいつも少人数で出動し、それから1日か2
日で黒山のような軍隊を編成し、自ら引率して行動を開始するの
が通例である――と京にいるポルトガル人の宣教師たちは認識し
ていたといっているのです。そういうわけで、2日の早暁に約1
万3千の兵が本能寺を取り囲んでも彼らは「いつもの命令受領」
と考えていたようです。
 ところが軍勢が本能寺を包囲後数時間経過して、突然本能寺か
ら火の手があがったというのです。それはもの凄い火力で燃え上
がり、四方の民家に類焼しているのです。八切氏は、これは明ら
かに爆発であり、本能寺の中にいた者は一人残らず「髪の毛一筋
残さず」吹き飛ばされたといっているのです。もちろん、信長も
です。一体本能寺に何が起こったのでしょうか。
 実は、本能寺の地下に煙硝蔵(火薬庫)があって、それが爆発
したと考えられるのです。何によって爆発したのかについては明
日述べることにして、マカオから運び込まれた火薬の原料である
硝石は、本能寺の地下に納められ、そこから目的地に運ばれてい
たというのはどうやら事実なのです。この本能寺の煙硝蔵の存在
については、最近発刊された津本陽氏の『本能寺の変』(講談社
刊)でもふれられています。
 そうすると、本能寺の変とは一体何だったのでしょうか。本能
寺はなぜ爆発をしたのでしょうか。本能寺を取り囲んでいた軍隊
はどこの軍隊だったのでしょうか。
 昨日ご紹介した立花京子氏によると、信長暗殺にイエズス会が
深く関与していたのではないかと述べています。
                 −− [本能寺の変/08]

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2007年04月06日

●朝廷は深く関与していた−−立花説(EJ第921号)

「信長を殺したのは誰か」――八切止夫氏のように「光秀は犯
人にあらず」とする説もありますが、本能寺の変のあとの光秀の
行動を考えると、光秀が実行犯であることは動かしようがない事
実であると思います。
 しかし、その動機となると諸説が乱立しています。定説として
は「怨恨説」「野望説」ですが、私が調べた限りでは、それらは
一番あり得ない説であると思います。動機に関しては今までEJ
で述べてきたところでは、次の2つがあります。
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  1.光秀/秀吉/家康3者共謀説
    実行犯/光秀 ・・・ 黒幕/秀吉/家康
  2.朝廷黒幕説
    実行犯/光秀 ・・・ 黒幕/正親町天皇、誠仁親王
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 殺人事件の犯人というものは、その動機が怨恨でない場合、そ
の人が死んで一番トクをする人物を疑えというのが常識です。結
果論として見ると、信長が死んでトクをした人物というと、やは
り天下を取った秀吉ということになります。しかし、秀吉が天下
を取れたのは、信長死去のあとの秀吉の判断と努力、それに加え
て彼の運の強さによるところが大きく、単に信長を殺せば天下が
取れたわけではないのです。
 それなら、家康はどうかというと、彼の場合は怨恨なら分かり
ますが、あの時点で天下取りを企てることは考えられなかったと
いえます。家康は、信長が死去したあとの戦略において秀吉に大
きく遅れをとっているからです。しかし、家康は秀吉に強い対抗
意識を持ち、その後も執念を燃やして、時期は遅れたものの結果
として天下を取るのです。そういう意味で、本能寺の変と関ヶ原
の戦いはつながっているといえます。
 このように考えていくと、光秀/秀吉/家康の3者共謀説は考
えられないことになります。それならば、2の朝廷黒幕説はどう
でしょうか。既に述べたように、朝廷も当時信長には相当の危機
感を抱いており、信長がいなくなって一番ほっとしたのは朝廷で
はないかと思います。しかし、現在、ほとんどの歴史学者は、こ
の朝廷黒幕説を否定しています。
 『逆説の日本史』の著者の井沢元彦氏は、朝礼黒幕説は十分考
えられるとしながらも、ある疑問が解決しない限り、その説には
乗れないと述べています。
 そのある疑問とは、本能寺の変のあと、天正10年6月9日付
で光秀が細川藤孝に出したという書簡――細川家文書として有名
――の内容に関するものです。光秀は藤孝に一緒にやってくれと
申し入れたのに、藤孝は髻を切って剃髪したということを聞き、
光秀は非常に腹を立てたけれども、よく考えてみればもっともな
ことだと考え直し、重ねて協力を要請したという内容です。
 井沢氏がいう疑問とは、その書簡で重ねて野心がないことを強
調しているけれども、もし、朝廷からの指示でやったものであれ
ば、そのことを書くはずなのに書いていない――それはおかしい
というものです。確かに、朝廷からの何らかの勅があれば自らに
野心のないことの何よりもの証明になるし、逆賊の汚名も着せら
れることはないのです。
 これに対して、歴史学者の立花京子氏は、その細川家文書はニ
セではないかという大胆な疑問を呈しています。立花氏はその細
川文書について次の3つのことを指摘しています。
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     1.花押が光秀本人のものではないこと
     2.光秀の字ではなく祐筆が書いている
     3.内容が弱々しく、光秀にそぐわない
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 立花氏は、細川藤孝が怪しいと考えているのです。光秀として
は、藤孝の息子である忠興のところに三女玉子が嫁に行っており
藤孝が同意しないのであれば、信長を討つことなどできなかった
のです。もし、藤孝が信長側に立っているならば、光秀は玉子を
犠牲にすることになるからです。したがって、藤孝は事前に光秀
に何らか合意を与えていたか、むしろ藤孝が光秀にクーデターを
仕掛けたとも考えられる――としているのです。
 立花氏は自ら『光秀文書目録』を作っているほどの光秀研究家
ですが、その目録を作るさい、光秀の花押を120個ほど集め、
そのかたちの変化でその年次比定ができる表を作成しています。
それによると、問題の細川家文書はZ型になるのですが、花押の
形はそうであっても他には絶対に見られない筆の太さがそこに現
れていると指摘しています。それに筆跡も光秀のものとは違うの
です。光秀の自筆は、もっと流れるような筆跡で、大変な達筆で
あるといっています。
 したがって、問題の細川家文書は、誰かが形を真似て作った偽
物ということになりますが、立花氏によると、犯人は藤孝自身で
はないかといっているのです。要するに、光秀は藤孝に乗せられ
て事件を起こし、そのあとハシゴを外されたのではないか、と立
花氏は推理しているのです。
 もちろん藤孝のバックには朝廷がいて、天皇、親王、前久、兼
見、晴豊たちは、信長暗殺に深くかかわっていたと立花氏は分析
しています。しかし、それを秀吉が知るところとなり、以後秀吉
に秘密を握られた朝廷は秀吉に何もいえなくなって、秀吉政権の
成立・全国制覇の事業達成を可能にさせることになる――これが
立花京子氏の推論です。多くの証拠を用意し、緻密に推論が積み
上げられ、非常に説得力がある所説であると思います。
 さて、本能寺の変の黒幕として、もうひとつ取り上げなければ
ならない黒幕がいるのです。それは、イエズス会です。立花氏は
そもそも信長の全国制覇にイエズス会が深くかかわっていたと述
べています。イエズス会とは何でしょうか。彼らは何を目的とし
て日本にきたのでしょうか。来週は、イエズス会から本能寺の変
を分析します。          −− [本能寺の変/09]

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2007年04月09日

●イエズス会がt『変』に関与した理由と根拠(EJ第922号)

 イエズス会というのは、世界最大のカトリック修道会の1つで
す。1540年にスペイン人のイグナチオ・ロヨラによって設立
されたのですが、日本にはフランシスコ・ザビエルが1549年
に鹿児島に来ています。当時信長は15歳で、結婚したばかりで
あったのです。
 1557年になってマカオがポルトガル領になると、キリスト
教の布教のために多くの宣教師たちが日本にやってくるようにな
ります。彼らは時の権力者に近づき、火薬を武器にして布教の協
力を取り付けることを常套手段としていたようです。
 当時の戦いはすでに刀や槍の時代ではなく、鉄砲の数が勝敗を
決めるようになりつつあったのです。その鉄砲にとって不可欠な
火薬をポルトガルの宣教師たちは握っていたのです。日本製の火
薬は質がわるく使い物にならなかったからです。
 永禄12年(1569年)の頃、信長とイエズス会とはかなり
仲が良かったのです。天正9年には、イエズス会の巡察師ヴァリ
ニャーノに京で馬揃えを見せたり、彼らが帰国するときは安土城
の天守閣を提灯でライトアップさせて送別会をやったりと、信長
は一貫して宣教師を保護し、理解し、優遇したのです。
 イエズス会の方も信長には、鉄砲の技術を教え、貿易で莫大な
利益を与え、宣教師たちが集めた海外情報をふんだんに信長に提
供していたのです。信長軍が当時の戦いに強かったのは、イエズ
ス会の強力な協力があったからといって過言ではないのです。
 イエズス会の協力を得て信長は着々と全国制覇事業を進め、遂
に彼らの情報によって、鉄甲船まで作り上げてしまったのです。
当時日本に来ていた宣教師はルイス・フロイスといい、彼はあと
で日本史を書いているのですが、この本は外国人から見た当時の
日本を知るうえでとても興味深いものです。
 しかし、信長はこの頃からイエズス会のいうことを聞かなくな
ります。これが本能寺の変の1ヶ月くらい前からかなり露骨にな
るのです。天正10年5月には総見寺を建てて一般公開し、そこ
に信長自身であるという白目石を祀って参拝するよう命じたので
す。これには、イエズス会は態度を硬化させてしまいます。
 それは、「天に2つの神なく、地に2つの神なし」とするキリ
スト教に対する挑戦であり、神を冒涜する行為である――きっと
イエズス会はそう考えたのだと思います。それにフロイスらの宣
教師たちは、信長が近くマカオを攻めて火薬の原料である硝石を
押さえるのではないかという情報をキリシタン大名などを通じて
収集していたといわれます。
 5月29日になると、信長は本能寺に入るのですが、ちょうど
その頃大阪の住吉の浦の沖合に7隻の鉄甲艦と夥しい軍用船が集
結しつつあったのです。前にも述べたように、信長は少人数であ
らわれると、2〜3日中に黒山のような軍勢を作って、どこかの
戦場に出陣することを宣教師たちは知っていたので、にわかに緊
張します。
 というのは、信長のイエズス会に対する態度の急変、夥しい戦
艦の集結、そして黒山のような軍勢――イエズス会の宣教師たち
が、これを「マカオへの出陣」と考えても不思議はない――と例
の八切止夫氏はいっているのです。もちろん、これは四国平定の
ための中国地方出陣の軍勢集結であったのですが、宣教師たちが
勘違いしても不思議はないと思います。
 そうなると、6月2日早朝の本能寺の爆発と見られる出火の謎
が少し解けてきます。八切氏がいう「本能寺の出火は、どこかの
キリシタン大名からの鉄砲攻撃によって、地下の火薬庫が爆発し
たもの」という説もあながち荒唐無稽な説ともいい切れなくなっ
てきます。
 立花京子氏は、イエズス会が本能寺の変に少なからず関与して
いたとし、その証拠の1つとして、本能寺の変の4ヶ月ほど後の
天正10年10月(日本暦)に、フロイスがイエズス会総会長に
宛てた手紙(報告書)を上げています。
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 (フロイスは信長が総見寺で自分を祀り、大勢の人が参拝し
 いることを述べたあとで・・・・・)
  信長がかくのごとく驕慢となり、世界の創造主であるデウ
 スのみに帰すべきものを奪はんとしたため、デウスはかくの
 如く大衆の集まるを見て得たる歓喜を長く享楽させ給わず、
 安土山においてこの祭りを行った後19日を経て、その体は
 塵となり灰となって地に帰し、その霊魂は地獄に葬られたこ
 とはつぎに述ぶるであろう――ルイス・フロイス記
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 これはまるで犯行声明そのものではないでしょうか。立花氏は
次のように述べています。
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  フロイスが何を言ったかというと、デウスのおかげで信長
 は全国制覇をここまで遂げられたのに、自分の力だと錯覚し
 て驕慢になった。だからデウスは、信長が自分を拝ませるよ
 うになって、命を19日しか与えなかったと記しています。
 ということは、フロイスはこの「変」はイエズス会が関与し
 ていたと言っているに等しい。
 ――立花京子 『真説/本能寺の変』(集英社刊)より。
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 このことに加えて、立花氏は、細川藤孝の妻はキリシタンであ
り、藤孝自身もそうであったのではないかという事実を指摘して
おり、藤孝自身は朝廷に加えてイエズス会にも働きかける立場に
あったことを述べています。
 このように考えると、信長を取り巻くかなり多くの者が信長に
消えてもらいたいと願っていたことになります。
 2週間にわたって「本能寺の変」を取り上げてきましたが、あ
とひとつどうしても取りあけたい話があります。
                 −− [本能寺の変/10]

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2007年04月10日

●≪黒衣の宰相≫天海僧正は光秀である(EJ第923号)

 有名な話ですが、比叡山に明智光秀が寄進したという石灯籠が
現在も立っています。もともと比叡山は光秀の領地だったところ
であり、寄進の石灯籠があっても不思議はないのですが、問題は
そこに刻まれている日付なのです。
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    慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀
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 慶長20年(1615年)2月というと、大坂夏の陣の開始直
前であり、額面通りに受け取れば、光秀はこの年まで生きていた
ことになります。この石灯籠は、大坂夏の陣に向けて、明智一族
の怨念を晴らすため、豊家滅亡を祈願して寄進されたものとされ
ているのです。
 といっても、本物の光秀が寄進した証拠はなく、別の光秀とい
う人が寄進したのかも知れません。しかし、光秀が山崎の戦いの
あと、生き延びていたという状況証拠は山ほどあるのです。
 通説によれば、光秀は最後の砦となった勝龍寺城を夜陰と雨に
紛れて抜け出し、大雨の中を数人の家臣と一緒に近江坂本城に向
かっていたのですが、山科の小栗栖にさしかかったとき、中村長
兵衛という土民の繰り出した竹槍にわき腹を刺されて深手を負い
その場で自害したと伝えられています。
 介錯をしたのは溝尾庄兵衛――光秀は自分の首は知恩院に葬る
よう庄兵衛に命じたといいます。そして、進士作左衛門、比田帯
刀という2人の家臣は殉死しています。ところが、溝尾庄兵衛は
光秀の首を知恩院に持っていかず、鞍覆いに包んで近くの藪の溝
の中に隠して坂本に落ち延びたといわれているのです。
 しかし、これはデタラメなのです。殉死したといわれる進士作
左衛門、比田帯刀は死んでおらず、細川興秋に仕えていることが
「細川家記」で明らかになっていますし、光秀を竹槍で指したと
いう中村長兵衛は、寛永年間に行われた調査では、実在しなかっ
たことが明らかになっているからです。
 それでは光秀は、誰のところに身を寄せていたのでしょうか。
相当の権力者でもない限り、主君を討った逆臣光秀を匿うことは
できなかったはずです。
 光秀を匿っていたとされる人物は徳川家康なのです。光秀は家
康の宗教政策を一手に担い、江戸の霊的防衛網を完成させた「天
海僧正」に身を変えていたといわれているのです。
 この天海なる人物は、「南光坊・智楽院」と称する天台宗の僧
であり、号を「慈眼大師」というのです。大師号は、平安時代の
智証上人以来700年ぶりのことであるというので、当時の仏教
界では相当力のあった人物であったといってよいのです。これは
比叡山復興に尽力した功績によるものといわれます。
 実は一度EJでこの天海僧正を取り上げたことがあるのです。
それは、1998年11月13日のEJ第21号です。当時、N
HKの大河ドラマでは「徳川慶喜」をやっており、そのことに関
連して取り上げたのです。
 天海僧正は「黒衣の宰相」といわれ、徳川の帷幕にあって権勢
を振るったのです。天海僧正は、江戸城の構築に当たって八門遁
甲の秘法により、子孫繁栄の方位を使って建築をしています。そ
のうえ、江戸城にとって最悪の凶方とされる艮位(東北)――つ
まり鬼門の方角「上野」に東叡山寛永寺を建立して運気の破れを
防ぎ、さらに念を入れて江戸そのものの鬼門に当たる「日光」に
東照宮を建立、次いで巽位(東南)の破れには愛宕山神社を作り
裏鬼門の坤位(西南)の方角には、遁甲玉埋めの法に基づき、城
内の某所に黄金の玉を埋めるなど万全を施しているのです。
 その結果はどうでしょう。あの明治維新という大革命のさいに
も徳川家は命を全うして、維新後は公爵という人民最高の扱いを
受けていますし、江戸城そのものも今もその雄姿は何も変わって
いないのです。天海僧正の霊的処置は効いていたのです。
 おそらく光秀は小栗栖を脱出して比叡山に逃れたのです。延暦
寺では、憎き信長を討ってくれた光秀を粗略には扱わなかったと
思います。そして、この比叡山で横河飯室谷長寿院に入り得度し
「是春」を名乗ったのです。そして、そこで、会津生まれの「隋
風」という名の光秀と同年輩の僧侶――本人は死亡――の存在を
知り、是春はその隋風になりすましたものと思われます。この隋
風がやがて天海僧正になるのです。そのためには、どこかで家康
と会う必要があります。
 天正16年(1588年)に隋風は東下し、江戸崎不動院に入
山します。その東下の途中の駿府で家康に再会したと思われるの
です。初対面であるにもかかわらず2人は「人払いをして旧知の
仲のように二刻(4時間)もの長時間かけて話し合ったという記
録が残っているのです。
 家康がどうして天海を受け入れたかについてはいろいろな話が
ありますが、それを書くのは別の機会にして、光秀が天海僧正で
あったという証拠をもう少し述べます。
 まず、天海が差配して作った日光東照宮には数多く明智の桔梗
紋があり、日光明智平の地名、それに光秀の位牌のある京都慈眼
寺と天海の号「慈眼」の一致など枚挙にいとまはないのです。
 それに、天海が光秀だとすると、江戸幕府初期の春日局の謎も
解けるのです。なぜなら、春日局(お福)は、光秀の重臣斉藤利
三の娘なのです。家康が逆臣の子のお福になぜあれほどの権限を
持たせたか――天海が光秀ならそれはありうるでしょう。
 それに三代将軍家光は、本当はお江の子ではなく、家康とお福
の子という説があります。それで家康は天海の勧めによって、家
康の「家」と光秀の「光」をつけたといわれているのです。
 そうすると、本能寺の変は明らかに関が原の戦いにつながって
きます。天海僧正は関が原の戦いでは鎧をつけて従軍してきてい
るのですが、この話は改めて取り上げることにします。
 本能寺の変について、いろいろな角度から分析してみました。
解けない謎は多いですが、今回で終わりです。明日からは、別の
テーマを取り上げます。      −− [本能寺の変/11]

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