2007年04月02日

●仕組まれていた家康の伊賀越え(EJ第917号)

 光秀、秀吉、家康が直接的に共謀して信長を討ったのではない
にせよ、光秀の信長暗殺の情報を秀吉と家康は事前に知っていた
ことは間違いないと思います。
 光秀がある日突然に思いついて本能寺を襲ったのではなく、昨
日のEJで述べたように、朝廷の内部の暗殺プロジェクトにより
コトが動いたとすれば、つね日頃から情報収集の重要性を熟知し
ている秀吉と家康の耳に入らないはずがないからです。
 本能寺の変が起こった天正10年6月2日――秀吉は備中高松
城(岡山)を攻めていたし、家康は30人ほどの家臣と一緒に京
見物の途中で泉州・堺(大阪府南部)にいた――これは、信長暗
殺に関しては絶対的なアリバイであるといえます。
 しかし、彼らは信じられないほど素早く情報を入手すると、秀
吉は電光石火、毛利と和睦を結んで姫路に「大返し」をし、家康
は選り抜きの家臣にガードされて、伊賀超えをして岡崎に戻って
いるのです。これらはいずれも、かなり用意された行動であり、
とっさの判断でやれることではないのです。そこには、大きな疑
惑があります。
 家康のケースから考えてみることにします。
 天正10年3月のこと、武田氏が滅亡したことにより、家康は
駿河(静岡県)一国を恩賞として与えられます。この恩賞のお礼
を申し述べるために、家康は武田遺臣の穴山梅雪と一緒に安土城
を訪れたのです。天正10年5月15日のことです。こういう目
的の旅行ですから、あまり大軍を引き連れてくるわけにはいかず
ごく少人数の護衛しか連れてこれなかったわけです。
 安土には6日間滞在し、21日に信長に京都遊覧をすすめられ
京都に入るのです。29日には堺まで足を伸ばし、6月1日まで
松井友閑や今井宗久などによって茶の湯の接待を受けます。
 ところが、それまで悠然と旅を楽しんでいた家康は、6月2日
朝、ひそかに重臣本多忠勝を京に向けて先に出発させたあと、帰
国に先立ち、もう一度信長に会うため京に行くといって急いで堺
を出発してしまいます。
 本多忠勝は、途中で徳川家御用達を務める京都の豪商茶屋四郎
次郎が馬を走らせてくるのに出会い、信長敗死を知って堺に引き
返します。途中で家康一行と出会った本多忠勝と茶屋四郎次郎は
同行の服部半蔵と相談のうえ、伊賀越えをして岡崎に戻るコース
を選択してこれを見事に成し遂げるのです。
 後年家康は、この伊賀越えは「九死に一生の危険な逃避行」と
いっているのですが、これにはウソがあります。ひとつには、本
多忠勝が家康と一緒にいることです。本多は徳川家の軍事を担当
する指揮官であり、本来であれば、動乱の余韻覚めやらぬ甲斐に
にらみを効かせるためには不可欠な人物です。
 他に人がいないわけではなく、本多忠勝をあえて物見遊山の旅
に連れてきたのは、この旅が非常に危険であることがあらかじめ
家康には分かっていたからです。
 それに、服部半蔵も物見遊山の旅にはふさわしくない人物であ
るといえます。服部半蔵といえば、伊賀で圧倒的な勢力を持つ忍
びの衆であり、伊賀越えをする場合、彼ほどの適任者はいないは
ずです。なぜ、服部半蔵が同行していたのでしょうか。最初から
そういう事態が起こることを予測していたのでしょうか。
 徳川家は家康の祖父松平清康の代から伊賀忍者と縁が深かった
のです。まして、天正9年には信長による伊賀攻めで多くの忍者
が殺戮されており、徳川家に投じる伊賀忍者は増えていたといい
ます。つまり、服部半蔵についても信長は家康とともに家族殺し
の仇敵であり、「信長憎し」の感情に固まっていたのです。
 甲賀忍者についても、元亀元年には信長の甲賀攻めを家康が中
止させたといういきさつから、甲賀忍者は徳川家に親和的である
といわれているのです。
 こういう事情から伊賀越えの途中、半蔵の呼びかけに応じて、
たちまち三百余人の伊賀・甲賀忍者が馳せ参じて家康の護衛に当
たったといわれます。何のことはない――伊賀越えは家康にとっ
て、最も安全性の高い避難路だったのです。つまり、少人数でも
大丈夫な備えをしていたのです。ついでに述べておくと、この服
部半蔵の遠祖は実は渡来系氏族であり、具体的にはあの秦氏なの
ですが、ここではあえて詳しくは述べないことにします。
 なお、家康と同道していた武田の遺臣穴山梅雪は、家康より少
し遅れて同じルートをたどり、宇治田原に向かったのですが、途
中一揆に襲われて殺害されています。もっともこれは表の話であ
り、梅雪の挙動に不審なものを感じた家康が、半蔵に命じて殺さ
せたというのが正しいようです。
 さて、家康は、岡崎に戻ると、直ちに陣触れを領内に回し、光
秀討伐軍を組織するのですが、それに10日を要し、6月19日
にやっと出発して尾張(愛知県)の鳴海まで進出します。そこで
秀吉が6月13日に光秀を討ち滅ぼしてしまったということを聞
くのです。情報に強い家康といえども、秀吉の「大返し」は予測
できなかったことになります。
 家康は直ちに撤兵し、本城の浜松城に戻るや甲斐(山梨県)と
信濃(長野県)両国を自己の支配下に組み込むことに着手するの
です。この両国平定は天正11年中に完了し、甲斐一国と信濃の
南半分を領国化し、5ヶ国の太守になることに成功します。
 しかし、家康がそうしている間に、秀吉は手際よく主家を盗み
取って、30ヶ国の大大名になり、朝廷権威を巧みに利用して、
豊臣体制という中央集権機構を作り上げてしまったのです。これ
は、明らかに家康の敗北といえます。
 天正12年になって、信長の次男である信雄(のぶかつ)が秀
吉と事を構え、家康を頼ってきたのを受けて、家康は挙兵して秀
吉に立ち向かいます。この小牧・長久手の戦いにおいて、家康は
総力戦では秀吉に及ばないことを悟ることになるのです。
 光秀によって信長が暗殺されることを家康とともに知っていた
秀吉が、その直後に見せた「大返し」にはどのようなカラクリが
あったのでしょうか。来週はその秘密に迫ります。
                 −− [本能寺の変/05]

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posted by ここから at 04:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 本能寺の変 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする