2007年04月03日

●秀吉の大返し/1日80キロの謎(EJ第918号)

 本能寺で信長父子が光秀に暗殺されたという情報が岡山にいた
秀吉に届けられたのは、諸説はあるものの、天正10年6月3日
の「それほど遅い時間ではない夜」と考えてよいと思います。
 その夜秀吉はかねてから親交のあった安国寺恵瓊をに呼び出し
飲める条件を示して毛利側との和睦の交渉を依頼します。この時
点で「信長死す」という情報は、毛利側にはまだ届いていなかっ
たはずです。事前に和睦の下交渉は行われていたのです。
 とはいうものの、清水宗治が治める高松城は、5月8日から水
攻めにあって落城寸前であり、まして信長が大軍を率いてやって
くる直前でもあるのに和睦を結ぶ状況ではなかったのです。安国
寺恵瓊は、すべてを知ったうえで秀吉の意中を汲み取り、和睦交
渉をやったのです。秀吉と安国寺恵瓊はつながっていたと考える
べきです。
 毛利との和睦が成立し、秀吉が岡山を離れたのは、6日の未の
刻(午後3時)です。秀吉としては和睦は成立したものの、信長
の死を知った毛利がどう出るか慎重に様子をみていたのです。そ
して毛利軍に動きがないことを知ると、秀吉は驚異的なスピード
で上方に引き返します。
 これは後世「秀吉の大返し」として話題になるのですが、どの
くらいのスピードで引き返したのでしょうか。
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 ●6日午後3時「高松城」を出発
  同日6日夜「沼城」に到着 ・・・・・・ 約26キロ
 ●7日早朝「沼城」を出発
  7日夜「姫路城」に到着 ・・・・・・・ 約80キロ
 ●9日早朝「姫路城」を出発
  11日午前8時「尼崎」に到着 ・・・・ 約80キロ
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 問題は距離です。本によってそれぞれ違うのですが、高松城か
ら姫路までは27里――約106キロあるといわれています。秀
吉は、高松城を6日の午後3時頃出発し、その日のうちに沼城に
入り、そこで一泊します。そこまでは、普通のスピードです。し
かし、7日の早朝に沼城を出発した秀吉軍はその日のうちに姫路
城に入っているのです。
 しかも、7日は朝から暴風雨であり、数ヶ所の大河、洪水を乗
り切って姫路城に到着したのです。その日の行程は約80キロと
いいますから、信じられないスピードといえます。
 このときの秀吉の軍勢は約2万5千人――これほどの大部隊に
なると、あまり早くは移動できないのです。強行軍を得意として
いた旧日本陸軍については次のデータがあります。
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  大部隊  ・・・・・・・・ 一昼夜20〜24キロ
  騎馬大隊 ・・・・・・・・ 一昼夜40〜60キロ
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 つまり、旧陸軍でさえ3日かかる距離を秀吉軍はたった1日で
踏破してしまっているのです。こんなことはとても信じられない
ことです。おそらく秀吉を中心に、数人の供回りの者が先行して
ひたすら姫路に向かったのでしょう。それにしても凄いスピード
ですが、秀吉としてはここ一番とばかり踏ん張ったのです。
 しかし、重い具足を身につけた兵隊たちは当然遅れてしまいま
す。それらの兵隊は後から三々五々姫路にやってきています。中
には、13日の山崎の戦いに間に合わなかった兵隊も少なくない
といわれています。
 兵隊が到着するのを待つということもあり、秀吉は次の8日一
日は姫路城で過ごします。そして、姫路城に蓄えてある金銀や兵
糧米をすべての家臣たちに分配してしまうのです。もちろん籠城
の意思はなく、姫路にはもう戻らないという意思表示です。
 秀吉軍が姫路城を出発したのは9日の早朝です。秀吉としては
もう少し姫路城で人馬を休ませるつもりでいたのですが、8日の
酉の刻(午後4時)にある緊急情報がもたらされたので、予定を
前倒しして姫路城を出発したのです。その情報とは、大坂にいる
信長の遺児/信孝を光秀が襲って、切腹を迫っているというニセ
情報です。
 しかし、姫路から尼崎までの秀吉軍の行程は、もちろん通常よ
りは早いものの、1日40キロのペースで軍勢を整えながらの進
軍となるのです。9日夜には明石到着。10日の午後には兵庫。
そして11日の午前8時に尼崎に到着しています。ここまでの間
に多くの兵は追いつき、軍勢はほぼ整ってきていたのです。
 世にいう「秀吉の大返し」は、事前に周到な計画が立てられて
います。1日で80キロという凄いスピードとはいうものの、そ
れは秀吉と数人の供回りの者たちが踏破したスピードであり、秀
吉軍全体がそのスピードで動いたわけではないのです。しかし、
秀吉は姫路城に少し長く滞在することによって、ちゃんと時間を
調整して軍隊が追いつくのを待っているのです。
 しかし、いかにも全軍が姫路に結集したようにウワサをばらま
いています。これで、光秀をはじめとする各武将は秀吉軍が怒涛
のように尼崎めがけて進軍してくると錯覚するわけです。
 それだけではないのです。秀吉は畿内と近畿にいる味方と考え
ている諸将――これについてはあとで述べる――に対して書状を
送り、秀吉軍とともに光秀征伐戦に参戦するよう呼びかけ、かれ
らの参着を待っていたのです。光秀討伐軍は少しでも多い方がよ
いからです。
 秀吉が、事前に信長が暗殺されることを知っていたのではない
かと疑われている理由としては、高松城からのいわゆる大返しに
あるのではなく、畿内や近畿にいる諸大名に対して事前に何らか
の工作をしていたのではないかという点にあります。
 そういう工作があればこそ、本来なら光秀につくはずの諸将が
ことごとく秀吉軍についてしまったのです。秀吉はこれを計算に
入れて、ひたすら高松城から尼崎へと派手な演出を試みながら進
軍してきたのです。        −− [本能寺の変/06]

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posted by ここから at 04:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 本能寺の変 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする