2007年04月04日

●信長暗殺/細川藤孝フィクサー説もある(EJ第919号)

 天正10年6月2日に信長父子の暗殺に成功した明智光秀――
不思議なことにその直後の光秀は非常に時間を無駄に使っている
ように思います。
 近江坂本や安土、山崎北方の勝龍寺城、天王山、淀城などを右
往左往しただけで、天下取りのために何ら有効な手を打っていな
いのです。つまり、クーデター成功後に何をどうするかというビ
ジョンが何もないのです。
 これに対して秀吉は、まるでそれを予測していたかのように、
きびきびと的確に行動しています。そういうところから、実行犯
は光秀であることは動かないとしても、秀吉仕掛け人説が根強く
あるのです。
 光秀の誤算といえば、もともと光秀の組下大名であった次の大
名がすべて光秀に味方しなかったことです。
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     丹後衆 ・・・ 細川藤孝 倅 忠興
     大和衆 ・・・ 筒井順慶
     摂津衆 ・・・ 高山重友 中川清秀
     兵庫衆 ・・・ 池田恒興 倅 元助
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 これらの大名のうち、細川藤孝は山崎の戦いに参加していない
ものの、他の大名はすべて秀吉に味方しているのです。これにつ
いて、やれ光秀の人間性に問題があるとか、面倒見が悪いとか、
ケチであるとかいろいろいわれていますが、光秀はけっしてその
ような人物ではないのです。これは明らかに裏切りです。
 とくに不可解なのは細川藤孝/忠興父子です。なぜなら、細川
家と明智家は強いつながりがあるからです。織田信長に将軍足利
義昭を引き合わせたのは光秀なのですが、そのとき足利将軍家の
重臣だった細川藤孝も信長に紹介し、仕えるようになったからで
す。そして、その後藤孝の息子忠興は、信長の命により、光秀の
娘玉を正室に迎えているのです。この玉が、有名な「細川ガラシ
ャ」なのです。
 しかも、藤孝は里村紹巴の主宰する連歌会のメンバーでもあり
光秀の企てを知っていたはずです。それに運命の5月28日の愛
宕百韻にも藤孝は出席する予定だったのに急遽欠席しています。
これだけの関係ですから、光秀としては当然味方してくれると信
じていたと思います。
 しかし、細川父子は本能寺の変を知ると、髻を切って信長に弔
意を示し、藤孝は家督を忠興に譲って細川幽斉と名乗ります。忠
興は、正室玉を離別し、光秀に使者を送って義絶を通告している
のです。光秀としては、手の平を返したような細川父子の態度に
がくぜんとしたことでしょう。
 それどころか、光秀はこの細川藤孝に信長暗殺をそそのかされ
たという説があるのです。これについて『信長権力と朝廷』(岩
田書院刊)の著者であり、歴史学者の立花京子氏は、作家/安部
龍太郎氏との対談で次のようにいっているのでご紹介します。
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 安部:そうすると、やはり藤孝がフィクサーとして動いたん
    じゃないか、と。
 立花:そうなんです。それに、秀吉の大返しにしても、あれ
    は素早すぎると皆さんおっしゃいますね。だから、秀
    吉もある程度知っていたのではないか。本願寺から知
    らされたとか、藤孝が知らせたんじゃないか、ともい
    われていますが、ひょっとすると、これはまだまった
    く私の推測ですけど、光秀は、秀吉も一緒にやるから
    というようなことを言われていたのではないでしょう
    か。(『真説/本能寺の変』より。集英社刊)
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 この立花氏の説は改めて取り上げますが、その説では信長暗殺
の意外な黒幕の存在を示唆しています。
 さて、池田恒興は伊丹城、高山重友は高槻城、中川清秀は茨木
城のそれぞれの城主ですが、この中では一番大身である池田恒興
が軍事的統率者になります。その池田恒興は秀吉寄りであるとい
うこともあり、そのため、秀吉は大返しの途中、恒興や清秀に手
紙を書き、参戦を呼びかけています。NHK大河ドラマ「利家と
まつ――加賀百万石物語」でも、池田恒興の秀吉へのベッタリぶ
りがよく描かれています。
 筒井順慶については「洞ヶ峠」(ほらがとうげ)という有名な
ことばが残っています。筒井順慶は光秀に大恩があるにもかかわ
らず、光秀からの要請に答えなかったのです。実際はどうしたら
いいかわからなかったのです。業を煮やした光秀は洞ヶ峠(京都
府八幡市)まで出陣し圧力をかけたのですが、筒井順慶は動かず
このとこから「洞ヶ峠」は「日和見」の代名詞となったのです。
 これらの池田、細川、高山、中川、筒井の諸将は、もともと信
長の命により、光秀とともに中国の秀吉支援に赴く準備をしてい
たので、光秀にも秀吉にも参戦できる状況にあったのです。秀吉
としては、ぬかりなくすべてに手紙を送りけん制したのです。
 秀吉は大返しの途中、中川清秀に、次のような手紙を送ってい
ます。
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 いま京都から届いた確かな情報によれば、上様ならびに殿様
 (信忠)は、光秀の襲撃を切り抜けて近江膳所ヶ崎に逃れ、
 ご無事だとのこと。まずもって、めでたいことである。
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 もちろん、ウソの情報です。しかし、情報が混乱しているあの
ときの状況で、この情報を聞いて秀吉に乗った方がトクと考えた
武将は多いと思います。
 しかし、この情報は単なるデタラメではなく、信長の遺体が発
見されないからいえることです。そうすると、秀吉は蜂須賀など
の乱破を使い、家康の遺体をひそかに本能寺から運び出した疑い
は濃厚になります。        −− [本能寺の変/07]

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posted by ここから at 05:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 本能寺の変 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする