2007年03月15日

●オーケストラが指揮者を拒否する事件(EJ第1013号)

 昨日のEJで述べたように、オザワはウィーン国立歌劇場の音
楽監督ですが、ウィーン・フィルにとっては、単なる客演指揮者
に過ぎないのです。したがって、たとえオザワであってもウィー
ン・フィルが演奏を拒否することはあるのです。もちろん、そん
なことをすれば、人間関係は一気に悪化してしまいますが・・。
 ウィーン・フィルほどの一流オーケストラになると、指揮台に
立つ音楽家の、現在の実力を瞬時に見破ってしまいます。彼らに
対しては、過去の名声や地位はまったく通用しないのです。した
がって、高名な巨匠といえども、ウィーン・フィルの指揮台に立
たせてもらうためには、今日の自分の実力が昨日のそれと同じで
あってはならないのです。大変な勉強が必要なのです。
 ウィーン・フィルのコンサート・マスターであるライナー・キ
ュッヒルは、「あの人は勉強しなくなった。だからもう招(よ)
びません」とよくいうそうです。ウィーン・フィルを振るという
のは、それほど難しいのです。
 ウィーン・フィルの演奏拒否事件としては、1869年の「ブ
ラームス事件」が有名です。ブラームスは、1862年にハンブ
ルグからウィーンに移住してきたのです。
 当時ウィーンは、フランツ・ヨーゼフ一世が軍部の強硬な反対
を押し切って城壁を撤去し、首都の再開発を行っていたのです。
宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)をはじめ、豪壮華麗な公共建築
物が次々と建築され、街全体が活気にあふれていたのです。
 ブラームスは、移住の翌年にはウィーン・フィルと演奏会を行
うなど、ウィーンで上々スタートを切っています。この演奏会で
ブラームスが取り上げたのは自身の2つの「セレナード」――第
1番ニ長調と第2番イ長調の2つです。これを皮切りにブラーム
スは、着実にその評価を高めていきます。
 しかし、ウィーンへの移住7年目の1869年12月のコンサ
ートで、ブラームスは再び「セレナード第1番ニ長調」を取り上
げようとします。ところが、ウィーン・フィルの数人の楽員がリ
ハーサルのさい、「こんな作品は弾きたくない」と拒否宣言をし
たのです。
 ブラームスは激怒し、ウィーン・フィルとの契約解除を宣言し
ます。しかし、中に入った人たちの努力によって決裂はまぬがれ
コンサートは無事に終了したのです。ブラームスにして、この有
様ですから、多くの著名な音楽家も似たような目にあっているの
です。練習再開に当ってブラームスは、楽団員に対して次のよう
にいったそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あなた方は私の作品の演奏を拒否されました。あなた方が私の
 曲をベートーヴェンのそれと比較してそのようなことをおっし
 ゃるなら『あのような高さにある作品は二度と創造されること
 はないであろう』と申し上げるしかないでしょう。しかし、私
 の作品は、私のベストを尽くした芸術的信念から産み出された
 ものです。この曲が、あなた方の演奏に値いしないものではな
 いことを、ぜひ、お解りいただきたい――ブラームス
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 18日夜、NHKテレビでベートーヴェンを取り上げていまし
たが、この当時すでにベートーヴェンの評価は絶対的だったので
す。ブラームスは、そのベートーヴェンが名作を書き続けた同じ
ウィーンで、作曲家として個を確立するのは大変だったと思いま
す。そのプレッシャーからか、ブラームスは、ベートーヴェンが
得意とするピアノ・ソナタや弦楽四重奏の分野では、名作を生み
出せていないといわれています。
 このように、ウィーン国立歌劇場や、ウィーン・フィルという
オーケストラは、指揮者にとって大変やっかいで扱いにくいオー
ケストラなのです。音楽家といっても、オケの楽員は昔かたぎの
職人であり、頑固一徹者が多いのです。指揮者はそういう人たち
をまとめなければならないのですから大変なのです。
 ところで、実は小澤征爾も若いとき、演奏拒否の洗礼を受けて
いるのです。演奏拒否をしたのはウィーン・フィルではなく、N
HK交響楽団です。
 1962年6月、オザワは、N響と半年間の指揮契約を結んで
います。その当時オザワは、1959年にブザンソン国際指揮者
コンクールで優勝、1960年にはベルリンでヘルベルト・フォ
ン・カラヤンの弟子を選出するコンテストで優勝、同じ年の7月
には、タングルウッド音楽祭の指揮者コンクールに優勝、そして
1961年4月には、レナード・バーンスタインが率いるニュー
ヨーク・フィルの副指揮者に就任しています。
 N響との指揮契約もそういう実績をふまえてのものだったので
す。そして、1962年7月にはオリヴィエ・メシアンの「トゥ
ランガリラ交響曲」を作曲家立ち会いのもとでN響を指揮し日本
初演をやっているのです。
 この年の秋、オザワは、N響と東南アジア演奏旅行を行うなど
旺盛な活動を行ったのですが、なぜか楽員との対立が激化してし
まうのです。そして、遂にN響の楽員代表から成る演奏委員会が
「オザワとの演奏会や録音には今後一切協力できない」という申
し入れを事務局に提出する事態になってしまうのです。
 その後も話し合いは行われましたが、1962年12月に予定
されていたベートーヴェンの「第九」公演が中止に追い込まれ、
オザワとN響の関係は決裂してしまいます。きっと、オザワにも
問題があったのだと思いますが、N響も少し大人げないふるまい
といわれても仕方がないでしょう。何が原因なのか、今もってわ
かっていないのです。私は1958年にはN響の定期会員になっ
ていましたので、このことをよく覚えています。
 オザワが再びN響の指揮台に立ったのは、それから32年後の
1995年1月のことです。公演の一週間前に発生した阪神・淡
路大震災の犠牲者追悼、被災者救済の意味合いもこめられていた
のです。32年後の歴史的な和解のコンサートは、バッハの祈り
で始まり、バッハの祈りで閉じられたのです。
                 −− [小沢征爾論/03]

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posted by ここから at 06:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 小澤征爾論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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