2007年02月15日

●指揮台に立つのが事件といわれる指揮者(EJ第1466号)

 2004年7月13日――カルロス・クライバーという高名な
指揮者がその74年の生涯を閉じています。この指揮者、近年ほ
とんど演奏をやっておらず、クラシック音楽ファンでなければ、
名前を知らない人も多いかも知れません。
 しかし、実演にせよ、ビデオにせよ、CDにせよ、一度でも彼
の指揮する音楽を聴いた人であれば、忘れることのできない鮮烈
な印象を与える指揮者であるといえます。
 指揮者というのはオーケストラで唯一楽器を演奏しない音楽家
です。したがって、たとえば、ベートーヴェンの交響曲第5番ロ
短調「運命」を何人かの指揮者の演奏で聴き比べても、少なくと
も音楽の素人には、そこにはっきりとした違いを見つけられない
ことはよくあることです。
 しかし、カルロス・クライバーの場合は違うのです。たとえば
彼の指揮した「運命」は、音楽にあまり詳しくない素人が聴いて
も、明らかに他の指揮者との違いを感ずるはずです。クライバー
はそれほど凄い指揮者であるといえます。したがって、カルロス
・クライバーの死は、一般の音楽ファンにとっても大きなニュー
スであり、EJのテーマとして彼の音楽論を取り上げる価値はあ
ると思います。
 それはさておき、指揮者といえば、新聞などで報じられていな
いあるニュースがあります。2004年10月23日(土)にN
響のAチクルスの演奏会があったのです。N響は、この秋のシー
ズンから、新音楽監督にウラディーミル・アシュケナージが就任
しているのですが、23日はそのアシュケナージがAチクルスに
はじめて登場したのです。演奏曲目は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪ウラディーミル・アシュケナージ音楽監督就任記念≫
  チャイコフスキー/交響曲 第3番 二長調 作品29
  チャイコフスキー/交響曲 第4番 ヘ短調 作品36
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところが、開演直前の午後5時56分に第1回目の地震があっ
たのです。この地震は東京でも相当揺れたので、N響側としては
開演を10分程度遅らせたのです。そして、第1曲目がはじまっ
たのですが、午後6時30分過ぎにも地震が起こっています。
 演奏は何事もなく進められましたが、あとから考えると指揮者
のアシュケナージの様子は、左手をかばうように動かさないなど
どことなくおかしかったのです。その後も何度か余震はありまし
たが、とにかく第1曲目は無事に終了したのです。
 しかし、アシュケナージは地震のショックによって、指揮棒で
左手の手のひらを突き刺し、裂傷を負っていたのです。そのため
アシュケナージは1曲目が終了すると直ちに病院に運ばれ、第2
曲目はコンサート・マスターの指揮で行われたのです。
 このようなことは、普通の音楽会では起こりえないことです。
しかし、それがN響の定期公演で起こったのです。新音楽監督の
アシュケナージにとって何とも不幸なスタートとなってしまった
ようです。どうも今年のNHKはついていないと思います。
 カルロス・クライバーの話に戻ります。こういう高名な音楽家
が亡くなると、CDショップでは、追悼イベントが行われるのが
つねですが、クライバーの場合、非常に遺した作品が少ないので
す。とにかくクライバーは、指揮台に立つこと自体が「事件」と
して騒がれるほど公演回数が少なかったので、ビデオやCDで聴
ける作品は数えるほどしかないのです。
 このカルロス・クライバーのことを評して、かのヘルベルト・
フォン・カラヤンは次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  この芸術家が音楽することを楽しむ機会があまりにも少ない
 のは残念。彼が指揮するのは冷蔵庫の中身を補充する必要に迫
 られたときだけだ。   ――ヘルベルト・フォン・カラヤン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 カラヤンとクライバーはあまり親しくはないのです。カラヤン
は、生前クライバーをただの一度もベルリン・フィルに招くこと
はなかったといわれています。おそらくカラヤンは誰よりもクラ
イバーの天才ぶりを熟知しており、自分の影が薄くなるのを恐れ
たのではないかといわれているのです。
 しかし、クライバーの方はカラヤンを尊敬していたのです。こ
んな話があります。カラヤンがザルツブルグ・イースター音楽祭
において指揮する「ニーベルングの指輪」の「ジークフリート」
をリハーサルしたとき、クライバーは14日間も勉強のために客
席に座り続けていたというのです。そのとき、既にクライバーは
指揮者として大成していたのですが、彼は文字通りカラヤンのリ
ハーサルから何かを学ぼうとしていたのです。
 カルロス・クライバーは、日本が非常に気に入ったらしく、全
部で5回の来日公演を行っています。これを見ると、日本におけ
る公演回数は非常に多く、日本の音楽ファンは恵まれていたとい
えます。彼はこれ以外にもお忍びで2回も来日しているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.1974年 バイエルン国立歌劇場 ・・・・  4公演
 2.1981年 ミラノ・スカラ座 ・・・・・・ 10公演
 3.1986年 バイエルン国立管弦楽団 ・・・  8公演
 4.1988年 ミラノ・スカラ座 ・・・・・・  6公演
 5.1994年 ウィーン国立歌劇場 ・・・・・  6公演
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                 −− [クライバー/01]


JXENCo[.jpg
posted by ここから at 04:54| Comment(0) | TrackBack(0) | クライバー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月16日

●ヒンデミット事件とクライバー一家(EJ第1467号)

 カルロス・クライバーはどのような指揮者なのか、その音楽は
なぜ注目されるのか、なぜ、公演回数が少ないのか――カルロス
・クライバーには数多くの疑問があります。今朝からひとつずつ
それらの謎を解いていきたいと思います。
 まず、カルロス・クライバーはどこの国の人なのでしょうか。
最初に答えをいうと、オーストリア人なのです。しかし、カルロ
スは、1930年にベルリンで誕生しています。カルロスの父親
で大指揮者のエーリッヒ・クライバーは、カルロスを自分と同じ
オーストリア人として出生届を出しています。そのときの名前は
「カール」だったのです。
 そのときドイツはナチス政権時代――エーリッヒはベルリン歌
劇場に職を得ていたのですが、多くの音楽家がそうであったよう
に、父親のエーリッヒはナチス政権に反旗を翻し、南米のブエノ
スアイレスに移住します。そしてそこでアルゼンチン国籍を取得
するのです。これに伴い息子の名前の「カール」はスペイン語の
「カルロス」に改められたのです。
 指揮者として有名になってからのカルロスは、ミュンヘン郊外
に居を構えており、仕事のほとんどはドイツからのものであった
にもかかわらず、ドイツ国籍を取ろうとせず、50歳になったと
きにオーストリア国籍に復帰しているのです。そのためか、カル
ロスはウィーンで好意的に見られているのです。
 さて、なぜ、父親のエーリッヒがナチス政権と決別してアルゼ
ンチンに移住したのかというと、それには有名な「ヒンデミット
事件」といわれる事件がからんでいるのです。
 ヒットラーを中心とするナチス政権は、1933年以降徹底し
たユダヤ人迫害政策のひとつとして、政治的側面のみならず芸術
的側面にもさまざまな破壊活動を行ったのです。そのナチス政権
によってその芸術を「頽廃」と決めつけられたドイツ人作曲家が
パウル・ヒンデミット(1895〜1963)だったのです。
 ヒンデミットは、優れたヴァイオリンやヴィオラの演奏家であ
り、作曲家であると同時に教育家でもあったのです。1927年
からはベルリン音楽大学で教鞭を取っていますし、のちに米国に
わたって、イェール大学の教授にもなっているのです。1953
年以降はスイスに移り住み、晩年はもっぱら指揮者として活躍し
来日公演も行っている人です。
 さて、ナチス政権が「頽廃」と極めつけたのは、ヒンデミット
の作曲した歌劇「画家マチス」だったのです。近年の研究による
と、マチスは「マチス・ナイトハルトまたはゴールドハルト」と
呼ばれており、「キリストの磔刑」などが代表作です。
 マチスは大司教に仕える画家でしたが、中世農民戦争に関わり
改革派に加担しているのです。歌劇では、自分の芸術とは誰のた
めのものかを自問する主人公の苦悩を中心に、権力と芸術との関
係に言及していたため、ナチス政権は気に入らなかったのです。
 ヒンデミットのこの歌劇「画家マチス」を上演しようとしたの
が、ベルリン・フィルの音楽監督であったフルトヴェングラーな
のです。しかし、歌劇場長官のゲーリングから上演禁止を命令さ
れます。
 これを知ったヒンデミットは、歌劇「画家マチス」を交響曲に
書き換えるのです。そして、1934年10月に交響曲「画家マ
チス」は、フルトヴェングラーの指揮によるベルリン・フィルに
よって初演され、大変な成功を収めたのです。
 それと同時にフルトヴェングラーは、1934年11月25日
付の「ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙上に『ヒン
デミットの場合』という論説を書き、ヒンデミットを全面的に擁
護したのです。
 この反響は驚くべきものだったのです。新聞はたちまち売り切
れ、増刷をするほどだったというのです。この論説が発表された
日の午前中にベルリン・フィルの公開練習があったのですが、フ
ルトヴェングラーの勇気ある発言に感動した人たちが会場を埋め
尽くし、彼が姿を現すと、全員立ち上がって足を踏み鳴らしての
大拍手が20分間も止まらなかったといわれています。
 そして、その日の夕方、国立歌劇場でワーグナーの歌劇「トリ
スタンとイゾルデ」がフルトヴェングラー指揮によるベルリン・
フィルの演奏によって上演されたのです。そのときもフルトヴェ
ングラーが姿を現すと、午前中と同じことが起こったのです。
 そのときの模様をフルトヴェングラーの秘書であるガイスマー
は、次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  切符は完全に売り切れてしまっており、ゲーリングもゲッペ
 ルスも共に各自の専用桟敷席に収まっていたが、フルトヴェン
 グラーがオーケストラ・ピットに姿を見せたとたん、朝のフィ
 ルハーモニーで起こったのと同じことが起こった。何者でも止
 めることのできぬ、あたかも永遠に続くかと思われるほどの拍
 手が劇場いっぱいに広がった。あの素晴らしい前奏曲が始まり
 憂愁につつまれた美しい雰囲気が作品をいっそう盛りあげて、
 それはすべての聴衆の心に深く浸透していった。終演後にもま
 た開演の時のような拍手の嵐が再現した ――ガイスマー著、
        筒井圭訳、『フルトヴェングラーと共に』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ゲーリングとゲッペルスは、この事態に危機感を抱きます。そ
して、それをヒットラーに伝えます。その結果、フルトヴェング
ラーはベルリン・フィルを辞職します。彼のことですから、世界
各国のオケから誘いがかかったのですが、それらをすべて断り、
あえて、ドイツ国内にとどまったのです。「俺はこの国がどこに
行くのか、見極める必要がある」として・・・。
 エーリッヒ・クライバーは、フルトヴェングラーの考え方に公
式に賛同を示し、ベルリン歌劇場を辞職するのです。そして、家
族全員で、アルゼンチンに移住します。ヒンデミット事件は、ク
ライバー一家に大きな影響を与えたのです。明日は、カルロス・
クライバーがどのような指揮者なのかについて考えます。
                 −− [クライバー/02]

tgEFO[.jpg
posted by ここから at 04:46| Comment(0) | TrackBack(0) | クライバー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月19日

●大指揮者エーリッヒとの関係(EJ第1468号)

 カルロス・クライバーが死去した地は、スタニスラヴァ夫人の
出身地であるスロヴェニアのコンシチャという町です。一部報道
では、母親の出身地のスロヴェニアと伝えられていますが、間違
いです。そのスタニスラヴァ夫人も、2003年の12月に亡く
なっており、寂しい晩年だったようです。
 スロヴェニアの住民たちは「大変偉い人」という認識をクライ
バーに対してもっていたものの、実際にはどのような人物である
かは知らなかったと思われるのです。
 そのため、世界がクライバーの死去のニュースを知るのに5日
ほどかかったのです。そして、各国のメディアは、7月19日に
なってはじめて「クライバー逝去」のニュースを流したのです。
そういう各国の新聞・雑誌の扱いを見ると、クライバーに対する
評価は、掛け値なしに、フルトヴェングラー、トスカニーニ、カ
ラヤン、バーンスタインに匹敵する高い評価だったのです。クラ
イバーは大指揮者として扱われているのです。
 カルロス・クライバーは、大指揮者といわれたエーリッヒ・ク
ライバーの息子であり、二世指揮者ということになります。しか
し、そういわれることを親子ともに嫌ったそうです。エーリッヒ
は、カルロスが音楽をやりたいと希望したにもかかわらず、最初
はそれを認めず、カルロスはチューリッヒ工科大学で化学を専攻
することになるのです。
 しかし、カルロスの音楽への夢は絶ちがたく、父親と交渉し、
その結果、才能がないと気づいたら化学の道に戻るという条件付
きで、ブエノスアイレスで音楽の勉強を始めるのです。1950
年のことです。その当時カルロスはスコア(楽譜)がぜんぜん読
めなかったそうです。それにこの親子は、カルロスがエーヒッヒ
の息子であるということを隠すため、カール・ケラーという名前
で音楽を勉強することになったのです。
 しかし、カルロスには天賦の才能があり、また、父のリハーサ
ルを子供の頃からいつも見ていたということもあって、たちまち
音楽の世界で頭角をあらわしていくのです。
 1952年にヨーロッパに戻ったカルロスは、ミュンヘンのゲ
ルトナープラッツ劇場で練習指揮者として採用されます。さらに
2年後の1954年、カール・ミレッカーのオペレッタ『ガスバ
ローネ』をボツダムで振って指揮者デビューを果たしています。
20歳ではじめて音楽を勉強したにしては、わずか4年で指揮者
デビューですから、驚くべきことです。
 1956年には、デュッセルドルフのライン・ドイツ・オペラ
の練習指揮者になり、1958年には正式指揮者に昇格していま
す。そして、1964年から1966年までチューリッヒ歌劇場
で、1966年から1972年までシュットゥットガルトのヴェ
ルテンブルグ州立歌劇場で指揮者を務めているのです。
 それにしても、父親であるエーリッヒ・クライバーは、これほ
ど音楽的才能に恵まれた息子に、本人が強く希望しているにもか
かわらず、なぜ専門的な音楽教育をさせなかったのでしょうか。
大指揮者であったエーリッヒであれば、息子の音楽的才能が尋常
ではないことに気がつかないはずはないと思うのです。
 推測ですが、エーリッヒは尋常ならざる息子の才能に、同じ指
揮者として、恐れを抱いていたのではないかと思うのです。息子
が指揮者になって活躍すると、音楽家としての自分の影が薄くな
る――そう考えたのではないかと思うのです。
 しかし、カルロスの方は父親を尊敬し、何かというと「親父は
こういった。ああいった」といい、相当のファ−ザ−・コンプレ
ックスにかかっていたといえるのです。しかし、エーリッヒは音
楽に関しては息子にあまり教えていないのです。
 クライバーは実に勉強熱心であったといわれています。とくに
はじめての作品を振るときは、作曲家について書かれた入手可能
な本をすべて読み、手に入る限りの録音を聴いて他の指揮者が同
じスコアをどのように解釈したかを知り、それから使用するスコ
アの版を決定し、すべてのパートをひとつずつ検討するという極
めて緻密な方法をとっていたのです。
 この当時のクライバーは、後年では考えられないほど広範なレ
パートリーのオペラやバレエを振っていたのです。しかし、シュ
ットゥットガルト歌劇場時代のあるトラブルを契機にクライバー
は、専属を避けてフリーの道を選ぶようになっていくのです。
 そのトラブルとは、クライバーがエディンバラ音楽祭の目玉公
演としていた歌劇『ヴォツエック』の公演を直前になってキャン
セルしたことです。この公演はBBCが収録を予定していたこと
もあって、一大スキャンダルに発展してしまったのです。
 しかし、かかる不祥事にもかかわらず、クライバーは同歌劇場
の首席指揮者に昇格するのです。それは、クライバーの才能を誰
よりも高く評価していたヴァルター・エーリヒ・シェーファー総
監督の配慮によるものなのです。
 それに応えるようにクライバーは、『魔弾の射手』、『蝶々夫
人』、『カルメン』、『オテロ』、『トリスタンとイゾルデ』な
ど、超大ヒットを飛ばし続けたのです。しかし、この頃から、ク
ライバーは気難しい、扱いにくい指揮者というレッテルが貼られ
ていくことになるのです。
 一般に指揮者は、年を重ねるにつれて円熟味を増していく成長
型の範疇でとらえられます。ドイツ・オーストリア系の音楽家は
ほとんどそういう型――老成・円熟型に属します。しかし、カル
ロス・クライバーの場合はそれが当てはまらないのです。
 クライバーの音楽は、1970年代時点――40歳代で完成の
領域に達しており、独自の世界を形成しているのです。彼の指揮
ぶりは、しなやかに舞い踊るさまに似ており、会場を興奮の坩堝
に変える恐るべきパワーを持っているのです。
 聴く者は、まるで電光に打たれたように翻弄され、自分を通り
過ぎて行く音楽にただ呆然となってことばがない――こういう世
界をクライバーは作り出すのです。それには、彼独特の緻密な研
究の集積がそれを可能にさせるのです。
                 −− [クライバー/03]

G[bqENCo[.jpg
posted by ここから at 05:20| Comment(0) | TrackBack(0) | クライバー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月20日

●準備に膨大な時間をかける指揮者(EJ第1469号)

 カルロス・クライバーの指揮ぶりを見ると、己の閃きを信じて
一瞬に燃え尽きる音楽を創り出しているように見えます。その指
揮ぶりは舞うように軽やかであり、己の天才的な感覚のおもむく
ままにやっている――そのような感じに見えます。
 しかし、クライバーは準備に信じられないほど時間をかける指
揮者なのです。そのひとつの逸話をご紹介します。それは、19
79年にウィーン・フィルを振ってブラームスの交響曲第4番を
演奏したときの話です。
 クライバーのレコード・デビューは、1973年のドレスデン
における歌劇『魔弾の射手』≪全曲版≫なのですが、その翌年の
1974年にはじめてウィーン・フィルと組んでベートーヴェン
の交響曲第5番『運命』を振っています。
 ウィーン・フィルというのは、気位の高い難しいオーケストラ
であり、それをはじめて振るにはそれなりの手続きが必要といわ
れます。それだけに、クライバーのようなかたちで簡単に公演が
決まるということは異例なのです。これは、クライバーの希望と
いうよりは、ウィーン・フィルの方がクライバーに惚れ込んだと
いう方が当たっていると思います。ウィーン・フィルにとってこ
んなことは稀有なことなのです。
 さて、コンサートでブラームスを振るのは、12月であるのに
クライバーは7月にウィーン入りしているのです。そして、楽友
協会でブラームスの自作譜の研究に没頭したといわれています。
このように書くと、彼がこの曲の研究をそのときにはじめたと考
えるかもしれませんが、彼はそれよりも6ヶ月も前からこの曲の
研究をはじめていたというのです。それほどの時間をかけて準備
し、12月のコンサートに臨んでいるのです。
 結果はすばらしいものだったのです。ディ・プレス紙はユリウ
ス・カエサルの言葉をもじってこのコンサートのことを「クライ
バーは来た、見た、勝った」と報じ、他のマスコミもそれに準じ
た報道をしています。
 このときの演奏ではありませんが、クライバーの指揮によるブ
ラームスの交響曲第4番ホ短調は、次のCDで聴くことができま
す。1980年3月にムジークフェラインで収録された演奏であ
り、クライバー49歳のときの演奏です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ブラームス/交響曲第4番ホ短調作品98
  カルロス・クライバー指揮/ウィーン・フィルハーモニー
  管弦楽団 グラモフォン[D]UCCG7011
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このCDの演奏に関して音楽評論家の諸石幸生氏は次のように
述べています。一部をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  演奏を耳にしてまず実感するのは、感じる人、それも痛いほ
 どの切実さで作品の心を感じる人、それがクライバーであると
 いう事実である。(一部略)
  美しい演奏であることは論を待たない。しかし、クライバー
 の指揮で再現される交響曲第4番は、生きるか死ぬかといった
 切実な気配が充満しており、ソファーに深々と身体を横たえて
 聴けるような代物ではない。        ――諸石幸生氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この作品は1980年代になってからですが、クライバーが指
揮界に華々しく登場したのは1970年代前半――正確には19
73年のことです。この1973年に『レコード芸術』(音楽の
友社刊)が批評家30人による「現代名指揮者ベスト・テン」を
次のように選んでいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.ベーム          6.ムラヴィンスキー
  2.カラヤン         7.小沢征爾
  3.バーンスタイン      8.メータ
  4.ショルティ        9.アバド
  5.ブーレーズ       10.サバリッシュ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まさにベテランから若手まで多士済々の指揮者が名を連ねてお
り、この中に割って入るのは容易なことではないのです。しかし
カルロス・クライバーは、次の4曲の演奏をやっただけで、ベー
ム、カラヤン、バーンスタインの中に分けて入ったのです。それ
ぞれに付けられた広告コピーが実に印象的です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ウェーバー作曲
   歌劇『魔弾の射手』≪全曲≫ ・・・・・・ 1973
   バイエルン国立歌劇場管弦楽団・合唱団
    ――噂のカルロス、ここに登場。――
 2.ベートーヴェン作曲
   交響曲第5番ハ短調『運命』 ・・・・・・ 1975
   バイエルン国立歌劇場管弦楽団・合唱団
    ――この奔流、巌をもおし流さんか!――
 3.ヨハン・シュトラウス作曲
   喜歌劇『こうもり』≪全曲≫ ・・・・・・ 1976
   ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
    ――いいぞ、カルロス、言うことなし。――
 4.ベートーヴェン作曲
   交響曲第7番イ長調 ・・・・・・・・・・ 1976
      ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
    ――誰だって信じざるを得ないこの天才。――
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現在、CDショップでは、「追悼!カルロス・クライバー」の
コーナーが設けられているところがありますが、上記の2と4が
セットになったCDがあり、これはお買いトクです。第5番と第
7番の従来のイメージを一新させる快演です。ジャケットは、添
付ファイルを参照してください。
                 −− [クライバー/04]

JXENCo[bc.jpg
posted by ここから at 04:42| Comment(0) | TrackBack(0) | クライバー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月21日

●身体全体で音楽を表現するクライバー(EJ第1470号)

 ここまでの分析ではっきりしてきたことがあります。一見場当
たり的に見えるクライバーの指揮ぶりのウラに、膨大な資料によ
る曲に対する徹底的な究明と先人による曲の解釈について真摯な
研究があったということです。
 それでいて、本人はあたかも何の苦労もなく瞬時にして音楽が
湧き出るような姿勢を外部に対して取りたがったのです。これは
ひとつの曲を指揮するのにいろいろ苦労している自分を第三者に
知られることを恥と考える彼独特のシャイな態度といってよいと
思います。
 それにクライバーの指揮ぶりは「しなやかに舞い踊る」――こ
の表現に近いのです。それでいて、必要がないときは指揮をしな
い――指揮をしない方がよい結果を得ると確信している場合に限
られますが――全般的にいってクライバーの指揮は抜群の運動能
力を必要とするのです。全身を激しく動かして、自分のその音楽
に対する考え方をオーケストラに伝達する――そういう指揮ぶり
なのです。
 このようなタイプの指揮者が老境に差しかかったときはどうす
ると思いますか。体力と気力が落ちるということは、音楽を具現
する手段を奪われることを意味しています。いかにして自分のス
タイルを維持できるか――これがカルロスを苦しめることになる
のです。晩年の演奏で批評家から「不完全燃焼」を指摘されると
本人はそれに非常に悩んだのです。それが少しずつ指揮台から遠
のく結果となっていったのではないか――そう考えられます。
 カラヤンは、初期の頃はかなり身体を使って指揮をしていたの
ですが、円熟するにしたがってほとんど指揮棒を大きく動かさな
いようになってきています。体力の衰えを意識してやったかどう
かはわかりませんが、クライバーとは対照的です。
 それにクライバーは明らかに録音嫌いで通っています。これに
は一理あると思うのです。音楽の録音というのは、コンサートの
ように、全曲通した演奏を収録するのではなく、部分的に演奏を
入れ替えたり、つなぎ合わせたりして、作り上げるのです。部分
部分でたくさんのテイクを取り、そのベストであると思うものを
つなぎ合わせて曲にするのです。このようにして作り上げた音楽
を生で演奏した音楽と区別して「レコード芸術」と呼ぶのですが
クライバーは、そういうレコード芸術を嫌い、あくまで生演奏に
こだわったといわれます。
 しかし、録音や録画が残されているからこそ、後世の人がクラ
イバーの演奏を再現できるのです。とくに録画については、実際
に通して演奏されたものをそのまま収録しており、現在でもクラ
イバーの音楽がどのようなものであるかを知ることができます。
オペラが中心ですが、クライバーの場合はそういう貴重なビデオ
が多く残されており、その演奏を再現することができます。
 クライバーの音楽が一見天才の閃きのようなものに見えるもの
の、そこに緻密な計算というか、論理性があることを指摘する人
はたくさんいます。その中の一人であるマンフレッド・ホーネッ
ク氏――元ウィーン・フィルのヴィオラ奏者で、現スウェーデン
放送響首席指揮者――の意見をご紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  クライバーはやはり天才だと思います。彼の音楽に対する集
 中力、リハーサルへの取り組み方、演奏の快活さ、そのいずれ
 もが超一流で、誰と比べて云々ということではなく、ほんとう
 に素晴らしいものでした。
  クライバーには音楽に対する直感というものがあって「この
 部分のフレージングはこうやって進めていくのだ」という独自
 の指揮ぶり、音楽の進め方がありました。とくに凄かったのが
 音が変化していく部分、主部と主部との結合部分での音のもっ
 ていき方、そこでの彼の指揮は、鮮やかで息を飲むほどだった
 のです。しかし、それは勢いでやっているのではなく、極めて
 論理的なものなのです。   ――マンフレッド・ホーネット
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ホーネット氏は、何回もクライバーと演奏する機会を持った演
奏者ですから、クライバーの指揮の特徴は知り尽くしています。
彼にいわせると、クライバーの指揮は技術の問題ではなく、指揮
する音楽作品の本質というものを知り尽くしていて、タクトを通
してそれを伝えてくれるので、演奏者として非常に幸福だったと
いっているのです。
 クライバーは何か超然とした力でオケを引っ張るとよくいわれ
ます。しかし、ホーネット氏にいわせると、クラスバーの指揮が
きわめて論理的でオケの楽員として理解できることなので、彼の
指揮にオケ全体がついていける結果であるといっています。それ
は、指揮者が指揮する曲や音楽そのものに対する深い理解に裏付
けられており、これによって楽員はクライバーがどのように考え
ているか、何を考えているかが理解できる――そのようにホーネ
ット氏はいっています。
 このホーネット氏の言葉を聞くと、指揮者にとって音楽に対す
る研究がいかに重要かわかります。クライバーはそういう研究に
多大の時間をかける指揮者であり、それによって彼自身の音楽観
というものを作り上げているのです。
 クライバーは、彼自身の中にそういう研究から得られた豊かな
音楽感性があるので、音楽の流れを言葉ではなく、身体全体で表
現する能力を持っているのです。身体の動きの一つひとつが音楽
なのです。頭と指揮する音楽が離れていない――まさに一心同体
クライバーの身体全体が音楽といえるのです。
 確かにこういうタイプの指揮者が老境に差しかかると、体力的
でも、気力的にも若い頃のようにできなくなるのは当然です。身
体全体で音楽を表現できなくなるのです。その結果、悩み、苦し
み、強いプレッシャーに押しつぶされる――とくにオペラの公演
初日が鬼門だったようです。このようにして、クライバーは少し
ずつ指揮台から離れていったのです。そして、音楽観をめぐり、
周囲とトラブルを重ねることが多くなったといいます。
                 −− [クライバー/05]

z[lbgJ.jpg
posted by ここから at 04:54| Comment(0) | TrackBack(0) | クライバー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月22日

●クライバーグラムというものがある(EJ第1471号)

 カルロス・クライバーは、豊かな音楽的感性を持っていた人で
あったので、自分の芸術上の考え方が合わないと、公演をドタキ
ャンしたり、人間関係でトラブルを起こしたりしたのです。
 EJ第1466号で、カラヤンはクライバーを一度もベルリン
・フィルに招いていないと書きましたが、これは事実です。しか
し、ベルリン・フィルとしては、3回にわたりクライバーに出演
を要請し、クライバーは2回にわたりベルリン・フィルを振って
います。
 最初のオファーは今から20年ほど前の話なのですが、公演直
前になって突然ドタキャンされたのです。ドタキャンの理由は、
クライバーが郵送した「書き込み入りの楽譜」をベルリン・フィ
ル側が楽員に配布していなかったということだったのです。
 演奏曲目は、ベートーヴェンの交響曲第7番なのですが、クラ
イバーは総譜に演奏上の指示を書き込んでおり、その譜を最初の
リハーサルの一週間前にベルリン・フィル側に郵送しておいたの
です。しかし、最初のリハーサルの2日前にクライバーはベルリ
ン・フィルに電話を入れて、楽譜は楽員に配ってあるかどうか問
い合わせをしたのです。
 しかし、ベルリン・フィル側は、その楽譜を配っていなかった
のです。そのようなことをする指揮者はクライバー以外にはいな
いので忘れていたか、一週間前では作業が間に合わなかったのか
も知れません。「まだ整理できていない」――この返事を聞いた
とたんクライバーは「それなら、私は行きません」といったとい
うのです。
 些細なことといえばそれまでですが、クライバーにとってこれ
はとんでもないことなのです。彼は自分の芸術的条件を満たす状
況が整わないと、絶対に指揮をしないのです。それ以来、クライ
バーとベルリン・フィルとの関係は冷却してしまったのです。ベ
ルリン・フィル側は謝罪するとともに、その後何回も出演を要請
したのですが、いずれも拒否されています。しかし、それから、
10年ほど経過して、ドイツ連邦共和国ヴァイツゼッカー大統領
催のコンサートではその招待に応えて2回指揮をしています。
 クライバーがベルリン・フィルを振ったのは、あとにも先にも
この2回だけです。それは、ドタキャン事件の後遺症というより
も、心から尊敬し、畏怖していたカラヤンのレベルに自分はまだ
達していないのではないかということを非常に気にしていたこと
もあって、演奏を逡巡したということもあったといえるのです。
 1989年にカラヤンが亡くなったとき、その後任について協
議があったのですが、実はベルリン・フィルは全員一致でクライ
バーに声をかけたのです。多分引き受けてはくれないだろうとは
思ったそうですが、とにかく第一候補はクライバーだったという
のです。しかし、彼は引き受けなかったのです。
 ところで、ドタキャンの原因となったクライバーの書き込み譜
のことですが、これは「クライバーグラム」といって大変有名な
のです。クライバーは70年代においてこのクライバーグラムを
必ず使っていたのです。
 添付ファイルにクライバー直筆のクライバーグラムを付けてい
ます。これは、1976年10月24日に上演された楽劇『ばら
の騎士』の練習において楽員に配布されたものですが、次のよう
に書いてあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1幕、練習番号217から218にかけて。オーケスラの高
 い声部の旋律に合わせてフレージングすること。(221から
 222にかけても同じ)
 第2幕、練習番号19の1小節前。全員「ff」でお願いする。
 (楽譜の指定はf)
           心からの感謝を込めて/C.クライバー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 マゼールという大指揮者がいます。彼は頭の中に楽譜がコンピ
ュータのように詰まっていて、1音間違えてもすぐわかるという
指揮者です。しかし、クライバーは少しぐらい間違えても、自分
の音楽のイメージに合致していれば何もいわないのです。
 クライバーはその音楽のイメージをいろいろな表現で楽員に伝
えています。たとえば、ベートーヴェンの交響曲第7番の演奏に
ついて、クライバーは次のように楽員に説明しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  この曲を演奏するやり方は100以上あるでしょう。しかし
 実際には2つの選択肢しかありません。1つは、びっくり箱を
 開けた途端にあなたに向って音が次々と襲ってくる状況です。
 もうひとつは、波がぶつかるような音の連続です。
                 ――カルロス・クライバー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クライバーグラム――実はこれは父エーリッヒ・クライバーの
影響なのです。エーリッヒはカルロスに正規の音楽教育を受けさ
せていませんが、オーケストラのステージ・マナーについてはよ
くカルロスに話していたそうです。
 コンサートが終了し、指揮者が拍手で舞台に迎えられると、指
揮者は演奏が素晴らしかった楽員を一人ひとり立たせて褒めるこ
とがあります。エーリッヒはそれに反対なのです。彼は立たせる
のであれば、全員を立たせるべきであり、特定の奏者を立たせて
はならない――あんなのは、ドック・ショーだとよくいっていた
そうです。
 そのことの是非はともかくクライバーはこれを絶対にしていな
いそうです。それから傑作なのは「指揮者はメガネをかけるな」
という教えです。
 クライバーは目は悪いのですが、コンタクトレンズをつけてい
たのです。メガネをつけていると何かの拍子に手が当って飛んで
しまう可能性があるからです。クライバーは冗談にメガネをつけ
ない理由を「メガネをつけるとサバリッシュに似てしまうから」
といっていたそうです。      −− [クライバー/06]

NCo[O.jpg
posted by ここから at 04:22| Comment(0) | TrackBack(0) | クライバー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月23日

●『天国のトスカニーニ』事件(EJ第1472号)

 カルロス・クライバーについて書き出してから今日で7回目に
なります。クラシック音楽に関心のない人にとってはつまらない
と感じるかも知れませんが、話題の指揮者の話ですから時事問題
として知っておいても損はないと思います。
 12日までの9回続ける予定ですが、きちんと読んでいただく
と、クライバーについて生半可のクラシックファンよりもずっと
詳しい知識を持つことができるようになります。
 最近のEJは「作品型情報」を目指しておりまして、ひとつの
テーマが終わると、そのすべてをプリントしておくと、価値ある
情報になると思います。また、音楽好きの人に対して転送してあ
げたら、きっと喜ばれると思います。
 セルジュ・チェリビダッケという指揮者をご存知でしょうか。
 この人は20世紀最後の巨匠といわれた指揮者で、終戦後のベ
ルリンフィルを再建し、首席指揮者として400回以上の演奏会
を開催して、戦犯容疑で演奏活動を禁止されていたフルトヴェン
グラーの名誉回復に尽力した人です。
 ベルリン・フィルというと、すぐカラヤンが頭に浮かびますが
基礎を築いたのはフルトヴェングラーであり、戦後のドイツの混
乱期に楽団を再建させたのは、このチェリビダッケなのです。
 カラヤンは、あのヒンデミット事件で演奏活動を停止されたフ
ルトヴェングラーに代わって、登場したナチス寄りの指揮者――
そういってよいと思います。このカラヤン――終戦後はチェリビ
ダッケが400回指揮をする間にたったの4回しかベルリン・フ
ィル指揮をしていないのです。当然、チェリビダッケはカラヤン
のことをボロクソにいうことになります。
 ところがカルロス・クライバーは何度もいうようにカラヤンを
尊敬しており、チェリビダッケがあまりにもカラヤンの悪口をい
うのでアタマにきて、新聞に「天国のトスカニーニ」というペン
ネームで投稿したのです。しかも、それが明らかにクライバーで
あることがわかるように書いたのです。ドイツではこれが結構話
題になったのです。
 こんな話があります。
 クライバーはとても日本が好きだったのです。その理由はいろ
いろありますが、広渡勲氏という友人がいたことが大きいと思う
のです。1992年に1994年に予定されていた楽劇『ばらの
騎士』日本公演の打ち合わせを兼ねて、クライバーはお忍びで来
日しています。
 このとき広渡氏は、クライバーを九州に連れて行っています。
鹿児島、熊本、阿蘇――とくにクライバーは鹿児島や桜島が気に
入ったそうです。イタリアのポジタノやナポリによく似ていると
いっていたそうです。そして、真顔でこのあたりの土地はいくら
かと聞いていたといいます。日本に住みたいと本気で考えていた
ようです。
 そういうわけで、ウィーン国立歌劇場の来日公演の話もとんと
ん拍子に進んで、何もかもがうまくいくと広渡氏は確信したそう
です。ところが、です。広渡氏がご機嫌のクライバーを成田まで
送って行ったとき予想もできないトラブルが発生したのです。
 空港で彼に代わって広渡氏がチェックインを行っている間、ク
ライバーをルフトハンザ航空のVIPアテンド係りの人に特別室
に案内してもらったのです。ところがその係りの人が広渡氏のと
ころに慌ててやってきて、クライバーが部屋に入るやいきなり飛
び出してきてロビーの方に行ったというのです。
 広渡氏がロビーに行くと、クライバーがこわい顔をしてロビー
の中央に立っているのです。どうしたのかと聞くと、「部屋には
チェビリダッケがいるんだ。彼と一緒にミュンヘンまで帰りたく
ない」というのです。あの「天国のトスカニーニ」の件があり、
チェリビダッケがきっと怒っていると考えたのでしょう。
 ちょうどそのとき、ミュンヘン・フィルが来日中で、チェリビ
ダッケは指揮者としてきていたのです。広渡氏はクライバーの座
席を調べてみたのです。そうすると、クライバーの席はファース
トクラスの最前列であり、隣の席が空いている。チェリビダッケ
の席は反対側通路の前から6番目ということがわかったのです。
 そこで、広渡氏はこういって彼の決断を迫ったそうです。「マ
エストロ、あなたがトイレさえ我慢されれば、チェリビダッケと
目を合わせることはありません。それとも30分後のフランクフ
ルト乗り換え便に変更するか。どっちにしますか」と。
 そうしたらクライバーは、「またヒロは無理なことをいう・・
・」とはいったのですが、苦笑いをしながら「トイレを我慢する
よ」といって飛行機に乗り込んだそうです。このように、クライ
バーは子供のような人なのです。
 これには後日譚があります。翌日の夕方、広渡氏がクライバー
に電話をすると、彼は大変上機嫌で次のようにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ヒロ、心配しなくていいよ。実は飛行機に乗るとチェリビダ
 ッケが隣の空いた席に移動してきたんだ。最初はショックだっ
 たけど、チェリビダッケがあんなにいい人だと思わなかった。
 彼は私に親切で、私は彼をまったく誤解していたようだ。帰り
 の旅はとても楽しかったよ。   ――カルロス・クライバー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結局、チェリビダッケは飛行機がミュンヘンに到着するまで、
ずっとクライバーの隣の席にいていろいろな音楽談義に花が咲い
たそうです。それに同機にはミュンヘン・フィルのメンバーが乗
っていて、彼らが入れ替わり、立ち代りクライバーの席にやって
きて、機内はさながら写真撮影大会になったというのです。
 そのとき、最後にチェリビダッケはクライバーに「今度ミュン
ヘン・フィルを振りにきてください」といったそうです。そのと
き、クライバーは「OK」とはいったのですが、結局その機会は
なかったのです。
 こういう逸話はたわいもないものですが、クライバーがどうい
う人かを知る貴重な情報になると思います。
                 −− [クライバー/07]

`Fr_bP.jpg
posted by ここから at 04:45| Comment(0) | TrackBack(0) | クライバー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月26日

●クライバーの最新録音を探る(EJ第1473号)

 何人かのEJの読者からカルロス・クライバーの演奏を聴いて
みたいが何がお勧めかという質問をいただいております。今回を
含めてあと2回でこれにお答えしていきたいと思います。
 クライバーの最新録音を探っていくと、1994年3月に遡る
必要があります。1994年といえば、その年の10月にクライ
バーの日本公演が行われています。昨日のEJでお話しした逸話
は、その公演の打ち合わせのために1992年にクライバーがお
忍びで来日したときの話だったのです。
 1964年10月のカルロス・クライバー/ウィーン国立歌劇
場/東京公演は大変な盛り上がりとなったのです。切符はS席で
6万5000円――しかし、あっという間に全席売り切れ、空前
のチケット入手難となったのです。
 そのとき、公演1ヶ月前に発売になったのが、1994年3月
に録画されたのは楽劇『ばらの騎士』の映像です。これは、LD
(レーザー・ディスク)です。データを示しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 R.シュトラウス
 楽劇『ばらの騎士』(全曲)
 グラモフォン(ウニテル)[D]POLG1160−61
 オットー・シェンク演出
 カルロス・クライバー指揮/ウィーン国立歌劇場O
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、東京公演とほぼ同一のキャストによるLDであり、大
変貴重なディスクであるといえます。しかも、これがクライバー
の最新録音になるのです。
 この作品について音楽評論家の小林利之氏は、ロット(元帥夫
人)、オッター(オクタヴィアン)、ボニー(ゾフィー)の女性
3人の歌と演技とアンサンブルを絶賛したあと、クライバーの指
揮について次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  だが、それらソリストや合唱をまじえた歌手以上に素晴らし
 いオーケストラの演奏ぶりは、クライバーの、昔とは一変した
 抑制度の高い精緻な表現をウィーン・フィルならではのまろや
 かで優美な響きで成就させている。(一部略)
  要所要所で表情を引き締め、歌わせる多彩な棒の魅惑で全曲
 を覆いつくすクライバー節こそ、この画期的な上演の最大の聴
 きどころといえよう。現代最高の≪ばらの騎士≫の映像作品で
 ある。                   ――小林利之
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、最新録音は1994年3月ですが、その前の録音として
次の2作品があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ニューイヤー・コンサート/1989&1992
  カルロス・クライバー指揮
  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  SRCR 1483−4/ソニー・クラシカル
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 おそらくこのCDは、EJを読んではじめてクライバーを聴い
てみたいという人に一番ぴったりだと思います。最近では2枚組
になっており、どこのCDショップでも入手可能です。
 聴いていただくと分かることですが、カルロス・クライバーは
「本物のウィンナ・ワルツが振れる指揮者」なのです。こればか
りは、アバドでもアーノンクールでも小沢征爾でも決してかなわ
ない――いや、あのカラヤンでさえ上回ると私は思っています。
これだけはぜひ聴いていただきたいと思います。
 このCDについての音楽評論家、堀内修氏の評論の一部をご紹
介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪1989年≫
  会場が熱狂する中で、その熱狂を巻き起こした張本人である
 シュトラウスは、自己を保っていたのかもしれない。私たちは
 ヨハン・シュトラウスU世の演奏を聴けない。だがカルロス・
 クライバーの演奏が聴ける。
 ≪1992年≫
  まばゆい「雷鳴と電光」は、クライバーのトレード・マーク
 だった。その最もすばらしい響きがここで聴ける。そして「美
 しき青きドナウ」だ。この曲がこんなに優美に、生き生きと演
 奏されることは、もう決してないだろう。   ――堀内 修
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クライバーのスタジオ録音で一番新しいものはどれかについて
調べてみると、1982まで遡ることになってしまうのです。実
に20年以上も彼はスタジオ録音から遠ざかっていたことになる
のです。
 その20年以上前のスタジオ録音の作品とは次の曲です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ワーグナー
 楽劇『トリスタンとイゾルデ』≪全曲≫
 グラモフォン[D]OOMG0440〜44(LP)
 グラモフォン[D]POCG3015〜3 (CD)
 カルロス・クライバー指揮/ドレスデン国立O
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この演奏に関する音楽評論家の国土潤一氏の評論の一部をご紹
介しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 正規の録音として登場した≪トリスタン≫は、バイロイト音楽
 祭のそれとは一味違っていた。何よりもバランス感覚の点で、
 ライブの熱狂とは一線を画していた。しかし、しなやかにして
 豊かなカンタービレと豊かな色彩感は、スタジオ録音というモ
 ニターできる現場ということもあってさらに際立っていた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                 −− [クライバー/08]

NCo[?I.jpg
posted by ここから at 04:53| Comment(0) | TrackBack(0) | クライバー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月27日

●26年ぶりに甦るクライバーの『カルメン』(EJ第1474号)

 カルロス・クライバーの音楽について知ろうとするなら、彼の
指揮したオペラを一曲聴いてみるべきです。一番いいのは、昨日
のEJでお知らせしたリヒャルト・シュトラウスの楽劇『ばらの
騎士』を聴くべきです。なぜなら、この曲ほどクライバーが愛し
たオペラはないし、彼が一番得意とするオペラだからです。
 しかし、この『ばらの騎士』は、今までオペラをあまり観たこ
とのない人にとって少し難しいかもしれません。そこで同じシュ
トラウスでもヨハン・シュトラウスの次の喜歌劇をぜひ推奨した
いのです。この曲なら、はじめてオペラを聴く人でも十分楽しめ
ると思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ヨハン・シュトラウスU世
 喜歌劇『こうもり』≪全曲≫
 グラモフォン(ウニテル)[D]WOOZ24011〜2
 オットー・シェンク演出
 カルロス・クライバー指揮/バイエルン国立O
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 問題なのはこれはDVDではなくLDなのです。LDを持って
いる人は少なくなっており、誰でも観ることができないという問
題点があります。私はこのLDを所有しており、その素晴らしさ
がよくわかりますが、これほど満足感の高い『こうもり』はかつ
て観たことがないのです。
 このLDの映像編集者はデライアン・ラージという人ですが、
彼は序曲だけでなく、あちらこちらにクライバーの指揮姿を実に
巧みに挿入しているのです。そのため彼の指揮ぶりが一層良くわ
かるようになっています。とにかくクライバーを聴くのに、これ
ほど最適なLDはないと思います。
 しかし、LDを持っていないがどうしてもクライバーの指揮す
るオペラを観たいという人にとって朗報があります。1978年
にクライバーがウィーン国立歌劇場を振った歌劇『カルメン』が
DVDで再発売されています。正式の発売日は11月26日です
が、ネットショップは既に売っています。データを示します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ビゼー
 歌劇『カルメン』≪全曲≫
 TDKコア[S]TDBA0060
 カルロス・クライバー指揮/ウィーン国立歌劇場O
  カルメン:エレーナ・オブラスツォワ
  ホセ  :プラシド・ドミンゴ
  ミカエラ:イゾベル・ブキャナン
 収録/1978年12月/発売2004年11月26日
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私は『カルメン』というオペラが好きなのです。それには理由
があります。それは私が最初に観たオペラであるからです。19
59年11月――ちょうど日本にはイタリア・オペラが来ており
東京文化会館で公演が行われていたのです。マリオ・デル・モナ
コ、レナータ・テパルディなどによる公演です。
 しかし、切符は完売であり、入手不能でした。ちょうどそのと
き、パリ・オペラ座が同時に来日中で、歌劇『カルメン』を有楽
町の東京宝塚劇場で公演中だったのです。こちらのチケットにつ
いては何とか入手できたので、観ることができたのです。
 オペラというのは、すべてそうですが、1回観ただけではその
良さを理解するのは難しいと思います。しかし、パリ・オペラ座
の公演には圧倒されたことを覚えています。その後、機会がある
ごとに何度も『カルメン』を観て、私の最も好きなオペラの1つ
になったというわけです。
 そういう『カルメン』好きの私から見て、クライバーの『カル
メン』は絶対に買いであると思います。クライバーの棒とウィー
ン国立歌劇場についてはいうに及ばず、いうことなしですが、そ
れに加えて、歌手の選択が実に適材適所であるからです。
 主役のホセという役柄は、最初は真面目で柔和な人間がカルメ
ンと接することによって野卑で凶暴な性格に変貌していく――そ
の変化を演ずる歌手でないと務まらないのですが、ドミンゴはそ
の役柄を見事に演じています。
 オブラツォワのカルメンもまさに適材――一種の繊細さを保ち
ながらも自由奔放に生きる妖婦の姿を巧みに演出しています。こ
のオペラは、妖婦としてのカルメンとホセのドロドロとした関係
の中に唯一清楚さを演出するホセの許婚のミカエラの存在が重要
なのですが、ブキッャナン扮するミカエラも実に印象的です。
 クライバーの指揮については、音楽評論家である宮崎滋氏が次
のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  クライバーの棒の持つくだんの精彩は、この『カルメン』全
 編にゆきわたっており、その終始たたみかけるような音楽作り
 からオーケストラの内奥からの鳴りの良さ、舞台を際立たせる
 ための演出的な棒さばき、そして彼独自のきわめて刺激的なア
 タックや強烈な現代感覚が舞台幕開けから一本の筋金のように
 読み取っていける演奏。文字通りクライバー音楽の特性が集約
 されているかのような一曲である。      ――宮崎 滋
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このオペラの演出は、フランコ・ゼッフィレッリ――彼の演出
についても、批評家の評価は高いのです。ゼッフィレッリの一流
のスケール感、舞台装置の充実性、具象的でわかりやすい演出で
いながら、安直な箇所はひとつもないという格式と重量感を感じ
させる演出と絶賛しています。
 とにかく、クライバー、ゼッフィレッリ、ドミンゴ、オブラツ
ォワによる『カルメン』――26年ぶりに甦るのです。検討して
いいDVDでしょう。カルロス・クライバーのテーマは今回で終
了し、明日からは新しいテーマです。
                 −− [クライバー/09]

NCo[w^wJx.jpg
posted by ここから at 05:06| Comment(0) | TrackBack(0) | クライバー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする