2007年02月28日

●軍歌は日本精神史の結晶である(EJ第825号)

 慶応義塾大学の塾員を原則として会員とするBRBという会員
制クラブが銀座8丁目にあります。BRBというのは「ブルー・
レッド・アンド・ブルー」のことであり、慶應義塾大学の校旗/
三色旗の色を意味しています。
 このクラブの売りは、午後7時から30分ごとに演奏されるピ
アノの演奏にあります。曲は季節にふさわしい曲や映画音楽など
のごく一般的なものですが、ステージの最後の曲はピアノで慶応
義塾大学の応援歌が必ず演奏されるのです。
 なぜBRBのことを書いたかというと、学校の歌に関連して国
歌と軍歌について書こうと思うからです。映画脚本家の林秀彦氏
の著書に『日本人と軍歌/海ゆかば山ゆかば』−−PHP研究所
刊というのがあり、なかなか面白いからです。
 軍歌というタイトルをつけた本を書いているといっても林氏は
国粋主義者でも軍国主義者でもありません。彼はテレビドラマや
映画の優れた脚本家であり、その作品には、「ただいま11人」
「若者たち」「七人の刑事」「鳩子の海」などの名作があるので
す。それに林氏は、1988年からオーストラリアに移住してお
り、外国の地から日本を見ているのです。この本を読んでいくつ
かの発見をしました。そのひとつは、米国には、「軍歌」という
ジャンルの歌が存在しないことです。それどころか、世界中に日
本のような軍歌は存在しないのです。林氏は終戦直後は「タキシ
ード・ジャンクション」が米国の軍歌だと思っていたようです。
 林氏は映画『グレンミラー物語』に関して、次のように書いて
います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『映画の一場面にもヨーロッパ戦線に慰問に出かけたミラー楽
 団が、大きな飛行機格納庫の中でGIに囲まれ、「チャタヌガ
 ・チューチュー」を演奏する場面がある。
 パードンミーボーイ、イズザッツァチャタヌガ・チューチュー
 と女性歌手が歌うと、男性コーラスが
 イェース、イェース、トラックトゥエンティナイン
 と歌い返す。驚異だった。当時ラジオで聞き、こんな軍歌を歌
 いながら進軍されては、わが皇軍が負けるはずだと肝に銘ずる
 ように納得した』。
 (林 秀彦著、『日本人と軍歌/海ゆかば山ゆかば』より)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あの映画で、軍艦の中で米軍の兵士がジャズを聞きながら攻撃
するシーンがあるのですが、昔の日本人が見たら「これでは勝て
ない」と思うはずです。
 「軍歌」というジャンルが日本特有のものであるとすると、日
本人がいかにも戦争好きの国民のようにとられ勝ちですが、それ
は大きな間違いというものです。
 工学博士の新津靖氏の書物によると、日本以外の世界では、ユ
ダヤ人がバレスチナに移住した紀元前1880年から、米国のリ
ンカーン大統領が暗殺された1865年の約3700年間の間に
10000回の戦争が起きているのです。その間8000回の平
和条約が各紛争当事国同士で結ばれ、その条約は平均2年で破ら
れています。
 これに対して日本は、曽我・物部氏の争いから西郷隆盛の西南
の役まで50回しか“戦い”を経験していないのです。日本はそ
れまで戦争ということばを使っていないのです。日本における戦
争とは、ムラとムラの間の「諍い」からヤクザの「出入り」、元
寇の役といわれたりする「役」どまりです。あとは「合戦」であ
り「乱」なのです。まして、日本には宗教戦争などは経験したこ
とがないのです。
 戦争と呼ばれ出してからは、世界の帝国主義に巻き込まれた明
治以来、日清・日露・日中を経て大東亜戦争の終結にいたるまで
わずか4回なのです。軍歌は、このような戦争の異常に少ない日
本という国から生まれたものであることをよく認識する必要があ
ります。
 林氏によると、軍歌の起源は「久米歌」であるとのことです。
「久米歌」とは、神武天皇がながすねひこを征伐に行くとき、大
和朝廷の親衛隊である「久米部」を連れていき、彼らの戦意を鼓
舞して歌った歌であり、その歌に合わせて舞った舞が「久米舞」
なのです。この「久米歌」は、現在でも雅楽歌曲として宮内庁に
受け継がれています。実はこの久米歌の中に「撃ちてし止まむ」
や「神風」が出てくるのです。
 日本民族は古代から歌が好きな民族であり、雅楽はすでに10
00年以上前から日本に存在しているし、民謡もわらべ歌も起源
が探れないほど昔からあるのです。日本人は、嬉しいにつけ、悲
しいにつけ、また、恋をし、恋にやぶれ、人を送り、人を迎える
――そういうときに歌を歌い続けてきたのです。このような国は
どこを探しても日本しかなかったのです。
 歌合戦、歌合せというのもあります。林氏の表現を借りると、
「古代、歌は戦いであり、戦いは歌である」といわれていますが
軍歌もそういう環境の中から自然に生まれてきたものなのです。
 林氏は、軍歌は消し去ることのできない質文明としての武士道
的価値観を反映した「日本精神史の結晶」であり、世界に類を見
ないものであるといっています。 −− [日本人と軍歌/01]

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2007年03月01日

●軍歌が生み出された背景を探る(EJ第826号)

 『海ゆかば山ゆかば』の著者、林秀彦氏は現在オーストラリア
に移住して、海外から日本を見ているのですが、最近の祖国日本
の在りように強い疑問を持っています。
 林氏によると、2001年11月8日のCNNのインターネッ
ト画面には、翻る旭日旗をバックに凛々しく挙手の礼をとってい
る若い日本の“軍人”の写真が載っており、「第二次世界大戦後
日本のトゥループス(軍隊)ははじめて日本の領域から離れる」
という英文のコメントが出ていたそうです。
 記事を読むと、日本の軍隊がどっと押し寄せるという語感があ
り、きっとタリバン側もそう受け取ったのではないかと林氏は、
いっています。それなのに、日本ではこの際に当たって、“武器
使用基準”についてもめていたのです。何と現実離れをした発想
なのでしょうか。それは、「戦争」というものが何もわかってい
ない日本の無残な姿であるといえます。
 林氏が住んでいるオーストラリアのテレビニュースの映像でも
自衛隊の戦車訓練風景の紹介を含め、日本が自分たちの同盟国側
の一員として、戦後初めて武力参加すると決め込んでいるような
報道ぶりであったと林氏はいっています。
 林氏は、日本人は伝統的にデモクラシーならぬ「ブラカシー」
をDNAとして持っているといいます。「ブラカシー」は古い日
本語の「ぶらかし」であり、その意味は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「態度をきめかね、曖昧に問題処理を一寸延ばしの先送りに
 する姿勢」――→ ぶらかし
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このブラカシーは、かのペリー艦隊を目の当たりにしても、右
往左往した幕府の対応を見てもいえることです。「テロ対策特別
措置法」に基づく“出兵”などは、ブラカシー法案とそれに基づ
く行動そのものである――と林氏はいっています。
 これは、米国の日本占領政策から続く左翼的日本国家改造計画
の実行部隊である日教組のメンバーが長年にわたってじわじわと
刷り込んでいった日本抹殺プログラムが遂に国民の骨の髄まで浸
透した結果ではないか――と林氏は激白しています。
 林氏は、日本の崩壊は日本が“戦争”ということばをはじめて
使った明治以来の4回の戦争からはじまっているといいます。明
治以来の日本の4回の戦争は、アジアの侵略を実行する欧米の列
強を跳ね除けようとしてはじめた、やむにやまれぬ戦争であった
のですが、そもそも量を争う戦争に質で対抗しようとして日本は
敗れたといえます。
 絶対的な量としての軍事力を向こうに回して、大和魂とか武士
道とか一億一心とかの質で対抗しようとしたのです。軍歌はそう
いう中で生み出されたものですが、林氏は、軍歌は日本の精神的
基盤から生まれた貴重な芸術であるといっています。そして、日
本の芸術について次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『芸術は理屈ではない。情のバイブレーションである。特に日
 本で生まれる芸術は、日本人しか持ちえないと私が確信してい
 る“情波”の一つである。音楽にしても絵画にしても建築にし
 ても、いまは同じ芸術という言葉にくくられても、日本のそれ
 は、他に類型を見ない独特の形と内容を持っている。それは、
 「量」の価値観を排する「質」の追求から生まれている。量の
 美と質の美の違いである』。(林 秀彦著、『海ゆかば山ゆか
 ば』より。PHP研究所刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 音楽を例にとると、確かに日本本来の音楽は、西洋のオーケス
トラによる圧倒的な量の芸術ではなく、三味線や尺八などによる
音と音の間の「無音の質」に美を見出す芸術であるといえます。
 軍歌についても貴重な日本的芸術作品であると林氏はいうので
すが、芸術である以上それは強制されたものではなく、すべてが
自発的なものである必要があります。
 現在、60歳以上の世代の人はおそらく軍歌がふつふつと自然
に口をついて出てくるはずですが、それは決して強制されたもの
ではなかったはずです。私自身がそういう世代ですから、それが
強制されたものではないことは確かです。それは、愛国心と歌の
心が自発的に結びついた結果生まれたものなのです。
 そういう意味でかつての軍歌は、学校の応援歌ととてもよく似
ていると思います。なぜなら、学校の応援歌は決して強制される
ものではないからです。
 林氏は、終戦までの日本は、国家自体が芸術作品であったこと
を強調しています。そこに暮らす日本人は一人一人が芸術家であ
り、芸術国家と芸術国民が、非芸術性の化身である戦争に参加し
量を争うべき戦争に質で挑んで敗れ去ったのです。そして、質の
価値が否定されることによって、軍歌は古色蒼然たる使い捨ての
歌として忘れ去られようとしています。
 確かに林氏のいうように、日本の軍歌が芸術作品であることは
国歌『君が代』にしても、準国歌『海ゆかば』にしても、その歌
詞の元が日本の古典、『古今和歌集』や『万葉集』から採られて
いることからもいえると思います。
 ところで、林氏が本のタイトルに付けた『海ゆかば山ゆかば』
の歌の正式な名称は『海ゆかば』というのですが、その歌詞は次
のたったの4行なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        海ゆかば 水漬く(みずく)屍
        山ゆかば 草むす屍
        大君の 辺(へ)にこそ死なめ
        かえりみはせじ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この歌は、万葉集に収められた大伴家持の長歌の一部に、東京
音楽学校教授の信時潔が曲をつけたものであり、戦時中は国歌の
『君が代』に次ぐ第2の国民歌に指定されていたのです。
                −− [軍歌と日本人/02]

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2007年03月02日

●世界に通用しない特得な日本の歌(EJ第827号)

 自民党の加藤紘一氏は、かねてから自民党の古い体質のことを
「若い人のカラオケパーティで軍歌を歌うようなもの」といって
いたそうです。「演歌」といわず「軍歌」といったところが面白
いと思うのです。
 加藤氏は、ミスターチルドレンやスピッツなど、若い人に人気
の歌を熱心に覚えることで知られますが、その感覚から自民党の
古い体質を軍歌と表現したものと思います。この表現のしかたで
加藤氏が軍歌を”日本の古き時代のおぞましいもの”というとら
え方をしていることがよくわかります。林氏の考え方とは大きな
差があります。
 「頂点への道/旧来型限界」と題するこの記事は次のように結
んでいます。現在EJで取り上げている軍歌の概念とは関係あり
ませんが、ご紹介しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『自民党の「古い体質」、経世会的な「数と力」。加藤氏はこ
 うした「軍歌」を嫌い、若者の歌を懸命に覚えた。だが、自民
 党の枠の中で頂点を目指した加藤氏の歌は、時代の流れに追い
 越されてしまった。しかもその足元は、金庫番が逮捕に至ると
 いう「軍歌」そのものの世界にむしばまれてもいた』。
         −−2002年3月24日付、朝日新聞より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 軍歌という歌のジャンルが実は日本しかないということをEJ
で書いたところ、何人かの読者から「意外だ」というメールをい
ただきました。私も最初はそう思ったのですが、どうやらそれは
事実のようです。
 確かにCDでも各国の「行進曲集」というのはあっても軍歌集
はないはずです。「米国軍歌集」とか「ドイツ軍歌集」というの
はないでしょう。それなら、どうして日本だけに軍歌というジャ
ンルがあり、平時には歌わない軍歌が多くあるのでしょうか。
 それは、昨日のEJでも述べたように、量を争う戦争において
質で挑戦しようとした結果なのです。多くの軍歌を作って士気を
鼓舞し、精神的な高揚を図ろうとしたのです。きっとそうせずに
はいられなかったのでしょう。
 そういう意味で『海ゆかば』は、軍歌中の軍歌といえると思い
ます。この歌は、昭和12年10月13日に日本放送教会(NH
K)が「国民唱歌」のラジオ放送を開始したさいに、その第1回
の国民唱歌に選ばれた作品だったのです。
 そして、4年後の昭和16年12月15日に『海ゆかば』を国
歌『君が代』に次ぐ第2の国民歌に指定しています。ちょうどそ
の1週間前の12月8日に日本は米英に対して宣戦布告しており
大東亜戦争がはじまっていたのです。当時ラジオではしきりに、
『君が代』と『海ゆかば』が流されていました。
 とくに『海ゆかば』は、戦死者が出るたびに一種の葬送歌とし
て必ず流されたので、国民に対して非常に多くのインパクトを与
えたのです。たった4行のこの歌が戦意高揚に大きな働きをした
のですが、若い人にはピンとこないでしょう。『海ゆかば』につ
いて林秀彦氏は次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       『海ゆかば 水漬くかばね
        山ゆかば 草むすかばね
        大君の 辺(へ)にこそ死なめ
        かえりみはせじ』
 『この大伴家持の歌には「戦う」という言葉も「勝つ」という
 言葉もない。中に出てくる「大君」という単語も必ずしも「天
 皇」に置き換えることはない。大切な君でありさえすればよい
 のである。あくまでも象徴であり、抽象であり、非合理な質的
 な発想である。全体としての意味は、君のためならたとえ火の
 中水の中・・・、この身を犠牲にしてもなんの迷いも後悔もな
 いという、まるで恋をしている若者のように心身を捧げんがた
 めの歌である』。(『海ゆかば山ゆかば』より)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 軍歌はない国でも国歌の歌詞には「戦え」とか「勝て」という
ことばが使われています。フランスの国歌には「血塗られた剣を
引っさげて、皆立ち上がり進め」という激しい言葉が綴られてい
ます。しかし、『海ゆかば』には、「戦え」も「勝て」もないの
です。それでいて当時強い戦意の高揚があったのです。
 大伴家持が生まれたときはわかりませんが、死んだのは785
年のことです。それが1000年以上も過ぎてから五線の楽譜に
移され、少なくとも昭和20年までは歌い継がれたのです。そし
て、多くの日本人がこの歌を歌いながら、祖国への犠牲的精神の
発露として散っていったのです。林氏のいうようにこれは「日本
人の精神史の結晶」というべきものといえます。
 考えてみると、日本の歌は中国や韓国は別として、それ以外の
世界に通用しない独特のものです。それは、歌の持つすべての味
のようなものが、あまりにも独特であるためであると思います。
 日本の歌は洋楽を根として、童謡、演歌、歌謡曲、校歌、応援
歌、映画主題歌というように発展していったのですが、それでい
て、その味わいが一種独特なのです。
 シナトラやプレスリーやビートルズが世界中で通用するように
美空ひばりや石原裕次郎の歌が、なぜ世界に通用しないのでしょ
うか。それが、演歌的な世界というローカル的文化性が原因なの
でしょうか。
 終戦後の日本の教育では、日本の独自性、特異性、特有性とい
うような民族性を強調することは軍国主義に通じるとして、マイ
ナスなイメージとして教えられています。しかし、・・・。日本
という国はそんなに軍国主義的な国だったのでしょうか。むしろ
逆ではないのでしょうか。現在、世界のどの国をとっても軍国主
義でない国などほとんどないのです。
                −− [軍歌と日本人/03]
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2007年03月05日

●戦時歌謡はどのようにして作られたか(EJ第828号)

 かつての日本は本当に軍国主義国家だったのでしょうか。それ
は違うと思います。異論の向きもあるかも知れませんが、日本は
四方を海に囲まれている国であり、覇権のために他の国を攻めた
り、侵略したりする国ではないと思うのです。それは、明治以来
の戦争の回数がたったの4回という数字に何よりもあらわれてい
ると思います。
 林秀彦氏は、日本人の戦争意識について次のように述べていま
す。日本人が戦争に立ち上がるのは「お国の大事」という場合に
限られているのです。日本はもともと専守防衛の国なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『少なくとも明治以来大東亜戦争までの一般日本庶民の念頭に
 ある戦争意識は、十字軍のそれでないどころか、ナポレオンに
 対する帝政ロシアの自衛でもなく、ナチスに対する連合諸国の
 自衛でもなく、短く乱暴に比喩すれば、吉良上野介に侵害され
 た浅野家の「お家の大事」の自衛だった』。
 (『海行かば山ゆかば』より)
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 さて、日本の歌には独特の味付けというか風味があって他の国
では流行しにくいということを書きましたが、例のポール・クル
ーグマンの本に日本人について次の面白い表現があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『何年か前にイギリスの「エコノミスト」誌が日米をうまく比
 較する記事を掲載していた。その記事によると、アメリカの場
 合、たとえ国民全員が火星人に取って代わられても、依然とし
 てアメリカはアメリカである。だが、日本は伝統的に祖先に自
 らのアイデンティティーを求める傾向がある。誤解を恐れずに
 言えば、日本人であるということは、日本人を両親とし、日本
 で生まれたということである』。(クルーグマン著、『恐怖の
 罠/なぜ政策を間違えつづけるのか』、中央公論新社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見ても分かるように、日本はやはり独特の国であり、そ
れは歌においても同じことがいえるのです。日本の歌に詳しい歌
手の藍川由美氏が、古賀メロディーの原点といわれる「影を慕い
て」について面白い話をしています。
 この歌は昭和5年に佐藤千夜子が吹き込んだのですが、さほど
売れなかったのです。しかし、昭和7年に藤山一郎の歌で発売さ
れると爆発的な大ヒットとなったそうです。同じ歌なのに、どこ
が違ったのでしょうか。
 佐藤千夜子も藤山一郎もともにクラシックの声楽家を目指して
勉強していたのですが、2人の歌には男女の差を越えた決定的な
違いがあったのです。
 佐藤はベルカント歌唱に近い歌い方で、まるでカタカナを読ん
でいるような日本語で歌っていたのに対し、藤山一郎はささやき
かけるような日本語でしっとりと歌ったのです。この藤山の歌唱
法は多くの日本人の心を揺さぶって大ヒットになったのです。
 これは、演歌に限らず、クラシックの歌曲をはじめとし、タン
ゴ、ブルース、ブギウギ、ロックなどについてもつねに「和製」
の冠がつけられ、日本人好みの味付けになっているのです。それ
は、日本語で歌っているというよりもリズムの取り方が日本的に
なってしまい、それで日本独特になってしまうのです。
 ところで、「流行歌」と「歌謡曲」はどこが違うか、ご存知で
しょうか。どちらも似たようものですが、次の違いがあります。
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    流行歌 ・・・・ レコード会社が作るもの
    歌謡曲 ・・・・ 放 送 局が採択したもの
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 もともと「歌謡曲」は、昭和初期に流行したエロ・グロ・ナン
センス的な流行歌に対抗して皆で歌える清新なホーム・ソングを
目指したものです。そのため、放送局が作詞者や作曲者を多数抱
え込んでこれを実現していったのです。
 これが戦時下では「国民歌謡」として、「時局歌謡」、すなわ
ち、「軍歌」になっていくのです。しかし、NHKは戦後になる
と、戦時中放送した時局歌謡をひた隠しにし、臭いものにフタを
しようとしているのです。
 時局音楽に携わった詩人や作曲家の中には、戦後になって自分
は軍歌を作っていないと発言したり、戦時中の歌詞を破棄して新
しい歌詞を音楽著作権協会に登録して、証拠隠滅を図ろうとした
人も多いのです。保身のためなのでしょうが、これは大変残念な
ことだと思います。
 確かに戦時中は歌を作る際にその打ち合わせに軍部も出席して
歌詞などに干渉したのです。作詞家や作曲家――とくに作詞家は
自分の意に沿わない歌詞を押し付けられた人もおり、自分の作品
でも封印したくなる気持もわからないでもありません。
 作詞家の西条八十は「比島決戦の歌」において、敵将の名前を
入れるよう打ち合わせ会議に出席していた将校に求められたとい
います。「水師営決戦の歌」に「敵の将軍ステッセル」と入って
いるではないかというわけです。西条は断固反対したのですが、
強制的に歌詞を変更させられてしまったのです。
 「レイテは地獄の3丁目、出てくりゃ地獄にさか落とし」と西
条は書いたのに「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ
地獄にさか落とし」と変更させられたのです。
 こうなってくると、かなり次元が低くなりますが、軍歌の中に
は本当に良い歌もあるのです。そういう戦時歌謡としての軍歌に
関して忘れられない作曲家がいます。古関裕而がその人です。彼
は、誰でも知っている戦時歌謡の名曲をたくさん作曲しており、
隠蔽しておくにはもったいないものばかりです。
 古関裕而氏は平成元年8月22日に亡くなったのですが、その
葬儀には、早稲田大学と慶応義塾大学のそれぞれの応援団が掲げ
る校旗に見送られて出棺したのです。早稲田出身でも慶応出身で
もない古関氏なのになぜでしょうか。その理由は明日のEJで、
詳しく述べることにします。   −− [軍歌と日本人/04]
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2007年03月06日

●応援歌づくりの名人/古関裕而(EJ第829号)

 作曲家/古関裕而(敬称略)――といってもピンとこないかも
知れません。とくに若い人はほとんど知らないでしょう。古関裕
而の作った曲はあまりにもたくさんありますが、次の3曲なら若
い人でも知っているでしょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.「巨人軍の歌/闘魂こめて」
  2.「阪神タイガースの歌/六甲おろし」
  3.「全国高等学校野球大会の歌/栄冠は君に輝く」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このような応援歌を作らせたら、古関裕而の右に出る人はいな
いと思います。巨人と阪神の、しかもプロ野球の応援歌としては
最も有名な応援歌を同じ作曲家が作っているなんてとても珍しい
ことだと思います。
 それだけではないのです。古関裕而は早稲田大学と慶応義塾大
学の両方の応援歌を作っているのです。昨日のEJの最後の部分
で、古関裕而の葬儀に早稲田と慶応の応援団が駆けつけ、両校の
校旗が掲げられる中で出棺が行われたと書きましたが、彼が両校
の応援歌を作曲しているからなのです。
 最初に作ったのは、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」です。昭
和6年のことです。この歌は早慶戦のときに神宮球場のスタンド
でよく聞いたものですが、慶応側の人間もこの曲がいい曲である
ことを認めていて、一緒に歌っている者もいるぐらいです。
 この歌は、古関裕而の同郷の歌手伊藤久男のいとこが早稲田大
学の応援団をやっていた関係で、依頼されたものといわれていま
す。作詞は学生から募集して住治男という人の作品が選ばれてお
り、それに曲をつけたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       紺碧の空 仰ぐ日輪
       光輝あまねき 伝統のもと
       すぐりし精鋭 闘志は燃えて
       理想の王座を 占むる者われ等
       早稲田 早稲田 
       覇者 覇者 早稲田
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 「紺碧の空」ができた昭和6年当時、慶応義塾も新しい応援歌
を作って対抗しました。その歌は、橋本国彦(故人)の作曲で、
「ブルー・レッド・アンド・ブルー」といったのです。三色旗は
慶応義塾の校旗です。しかし、この春の早慶戦は「紺碧の空」を
歌った早稲田が勝利して「ブルー」は消えたのです。
 戦後になって、中断していた東京六大学リーグ戦が復活した昭
和21年のことです。早稲田大学の「紺碧の空」があまりにもい
い曲なので、慶応義塾大学の応援団が古関家を訪れて「ぜひ応援
歌を作って欲しい」と頼み込んだのです。
 古関裕而は早稲田大学の了解を取ることを条件に慶応義塾大学
の応援歌を作曲してくれたのです。曲が先にできて、あとから慶
応出身の藤浦洸(故人)が歌詞をハメこみ、完成したのが「我ぞ
覇者」なのです。
 この歌は4番まであり、4番は早慶戦用の応援歌になっていま
す。現在では4番だけが独立して歌われるようになっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       よくぞ来たれり 好敵早稲田
       天日(てんじつ)のもとにぞ 戦かわん
       精鋭われに有り 力ぞあふれたり
       おお 打てよ砕け
       早稲田を倒せ
       慶応 慶応 慶応義塾
       叫べよ高く 覇者の名を
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ついでに「六甲おろし/阪神タイガースの歌」のことも書いて
おきましよう。この歌は昭和11年に阪神球団から依頼されて作
曲され、中野忠晴という人の歌でレコードが作られていますが、
これは一般発売ではなかったのです。このときのタイトルは「大
阪タイガースの歌」で、B面はやはり古関裕而作曲の「大阪タイ
ガース行進曲」が収録されていたのです。
 「阪神タイガースの歌」は、阪神ファンの間にじわじわと浸透
し、やがて「六甲おろし」と呼ばれるようになったのです。1番
の歌詞の最初が「六甲おろしに 颯爽と」ではじまるところから
そう呼ばれるようになったのです。
 東京にいかに巨人ファンが多くてもカラオケで「闘魂こめて」
が歌われることはありませんが、関西ではカラオケで「六甲おろ
し」が歌われることはさほど珍しいことではないのです。そのく
らいこの歌は関西人に浸透しているのです。
 ところで、昨日のEJでご紹介した歌手の藍川由美さん―――
この人は声楽の分野でわが国初の学術博士号を取得した人なので
すが、古関裕而の研究家としても有名です。それに、藍川さんに
は「古関裕而歌曲集」というCDもあります。
 藍川さんはその著書『これでいいのか、にっぽんのうた』(文
春新書)の中で、古関裕而がこれほどの名曲をたくさん作曲して
いるのに、意外に日本の音楽界の中で評価が高くないことに疑問
に感じ、調べはじめたと書いています。
 古関裕而は、昭和4年に行われた英国の国際作曲コンクールで
堂々第2位を獲得しているという事実があるのですが、このこと
は日本の音楽史のどこにも記載はないとそうです。
 しかし、これは事実であり、これによって古関は、日本ではじ
めて国際的に認められたクラシックの作曲家ということになるの
です。日本の音楽ジャーナリズムは、東京音楽大学出身者以外は
音楽家として認めないという傾向があったのです。
                −− [軍歌と日本人/05]

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2007年03月07日

●情感あふれる古関裕而の軍歌(EJ第830号)

 藍川由美氏の指摘によると、昭和のヒトケタの時代には、中山
晋平の「波浮の港」「東京行進曲」「東京音頭」「天龍下れば」
などや古賀政男の「影を慕ひて」「酒は涙か嘆息か」「丘を越え
て」が一世を風靡し、昭和フタケタに入ると古関裕而や服部良一
が登場するのです。
 ところで中山晋平といえば、東京音楽学校を卒業したわが国の
クラシック音楽の総本山とされている人ですが、古関裕而は福島
商業学校卒で正式に音楽教育を受けておらず、独学で作曲を勉強
したのです。
 その古関裕而が、福島商業学校の5年生の夏から翌年の5月に
かけて作曲したオーケストラの作品が昭和4年の英国国際作曲コ
ンクールで第2位に輝いたというのですから、それは日本の音楽
史上の快挙というべきものです。
 しかし、藍川由美氏の指摘によると、その快挙が事実であるに
もかかわらず、堀内敬三の『音楽50年史』、中島健蔵の『証言
・現代音楽の歩み』には一切記載されていないのです。
 古関裕而は日本の音楽界にまったく後ろ盾がなく、独学でもあ
るので、東京音楽学校のメンツを重んじようとしたのか、それと
も国内の著名音楽家に遠慮したのか、この快挙が報道されること
はなかったのです。日本の音楽界は、古関のような在野の音楽家
を冷淡に扱う傾向が強かったことを藍川氏は指摘しています。
 古関裕而のオーケストラの作品がいかに素晴らしいかは、今で
もNHKがスポーツ放送のテーマ曲にしている「スポーツ・ショ
ウ行進曲」や、昭和39年、55歳のときに作曲した東京五輪用
の「オリンピック・マーチ」を聴けば明らかです。
 とくに「オリンピック・マーチ」は古関裕而の天分がいかんな
く発揮された名曲であり、世界中から、誰の作曲かという問い合
わせがNHKに相次いだといいます。そして、いつしか古関は、
「日本のスーザ」といわれるようになったのです。それなのに、
いまだに古関裕而の業績は高く評価されていないのです。
 軍歌の話からかなり脱線してきているようですが、国民歌謡や
時局歌謡(軍歌)は、そのまま校歌や応援歌につながってくる歌
であり、その根は同じものというべきです。そういう意味で古関
裕而も数多くの軍歌を作っているのです。
 その中でもとくに有名であり、名作といわれるものをいくつか
上げ、最初の歌い出しを書いておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.露営の歌 ・・・・・・ 勝ってくるぞと勇ましく
  2.暁に祈る ・・・・・・ ああ あの顔で あの声で
  3.若鷲の歌 ・・・・・・ 若い 血潮の 予科練の
  4.ラバウル海軍航空隊 ・ 銀翼つらねて 南の前線
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 おそらく現在60歳以上の人であれば、最初の歌い出しを見れ
ば自然にメロディが出てくるはずです。それほど何回も聞いたし
聞かされた歌なのです。しかし、それ以上にこれらの歌が質的に
良かったからこそ、記憶に残ったのです。
 この中でとくに印象的なのは「露営の歌」です。この歌は、昭
和12年7月に支那事変がはじまったときに、東京日日・大阪毎
日新聞社(現在の毎日新聞社)が時局歌を募集したところ次点に
なった歌詞に基づいて作られたのです。ちなみに一等当選歌は、
「進軍の歌」であり、これは陸軍戸山学校軍楽隊が曲をつけ、次
点は古関裕而に作曲が委嘱されたのです。
 そのとき古関裕而は満州を旅行中だったのですが、電報で急遽
呼び戻されたのです。古関は下関で買った新聞で「露営の歌」の
歌詞を知り、下関から東京に戻る汽車の中で曲を作り、東京に着
いたときにはできていたという逸話が残っているのです。
 このときの選者のひとりに北原白秋がいたのですが、北原はこ
の「露営の歌」を評して、「うまく曲がつけば第二の『戦友』に
なるだろう」と評しているのを知り、古関は「それなら・・」と
車中にもかかわらず曲をつけたといっています。
 第1位の「進軍の歌」は、いかにも軍歌らしく武張った印象で
あるのに対して、「露営の歌」は戦陣に在って生きていくことの
実感と感慨とをにじませたヒューマンな、もののあわれに通じる
感傷性がみなぎっている良い歌です。
 「露営の歌」は5番までありますが、3番は少しトーンを落と
して歌うよう古関は指定しています。3番の歌詞を紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    弾丸(たま)もタンクも 銃剣も
    暫し露営の草枕
    夢に出てきた 父上に
    死んで還れと 励まされ
    さめて睨むは 敵の空
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 一般的に軍歌というと、行進曲風のいかにも士気を鼓舞する押
しつけ的な曲想が多いものですが、古関の曲の場合、行進曲風で
ありながら、そこに豊かな情感というものが感じられるのです。
それが何度歌っても飽きがこない音楽となっているのです。「露
営の歌」もそういう歌のひとつです。
 また、同じ行進曲でも単に勇ましいものから、希望が湧いてく
るものまでいろいろありますが、古関の行進曲風の曲には弾むよ
うなリズムがあって、しかも情感にあふれ、それが素直にやる気
を起こさせる原動力になっているものが多いのです。
 その典型的な歌に、戦後菊田一夫と組んで作ったドラマ「鐘の
鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」があります。これは、もとも
と戦災孤児を励まそうと、米国の占領軍が企画して菊田一夫にド
ラマの制作を依頼してできたものなのです。「緑の丘の 赤い屋
根 とんがり帽子の時計台・・・」ではじまる歌です。
 このドラマの主題歌がどんなに当時の子どもたちの力になった
か、印象に残ったか、現在50歳以上の人ならきっとわかると思
います。            −− [軍歌と日本人/06]

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2007年03月08日

●日本の歌の両端に古関と古賀がいる(EJ第831号)

 藍川由美氏は、「日本の歌」の両極端に位置する作曲家として
古関裕而と古賀政男をあげており、両者の決定的な違いは音階に
あることを指摘しています。
 古関裕而の作風は、10代の頃からリムスキーコルサコフやス
トラビンスキー、シェーンベルクといった作曲家の作品の影響を
強く受けています。古関の音楽は、1オクターブを12分割した
12平均律によって構築され、自在な転調をその特色としており
そういう意味でスタンダードであるといえます。
 これに対して古賀政男の音楽は、日本独特の、あるいはアジア
の伝統的な歌唱法をベースとしています。これは、厳密にいうと
古賀政男の音楽は12平均律で調律された楽器では出せない音で
構成されているといってよいと思います。
 藍川氏の本には、12平均律の音階の振動数と、英国人エリス
が明治初期に測定した日本の音階の振動数を比較する表が載って
いますが、そこには微妙な差があるのです。これは何を意味する
のかというと、12平均律で調律されたピアノで日本の音階を弾
くと、日本人の耳には微妙に狂って聞こえたり、心地よくない響
きになったりすることがあるということです。
 そこで、古賀は、自分で自由に調弦できるギターやマンドリン
などの弦楽器を使って作曲し、ピアノでは出せない音を求めたの
ではないかといわれています。古賀の求めた日本独特の音は三味
線などの日本特有の楽器の音にも通じるのです。
 日本の流行歌の世界では、作曲家自身が歌手に直接節回しを歌
いながら伝授するのが通例となっています。そのため、同じ曲で
も歌手によって歌い方はかなり違ってくることになります。
 とくに古賀の作品の場合、その自筆譜には細かい節回しが16
分音符や3連符などを用いて書き込まれており、古賀はそれを使
って歌手に合わせて歌い方を指導したといわれています。したが
って、流行歌の場合、どこまでが楽譜に書かれていることで、ど
こまでが歌手の個性なのかわからないまでに歌と歌手が一体化し
ていくのです。
 これに対して、「雨のオランダ坂」や「三日月娘」、「君の名
は」や「黒百合の歌」などの流行歌も多く手がけている古関裕而
の方は、あくまで12平均律にのっとって音楽を作り、それをき
ちんと音符に書き、歌手がスコアの通りに歌わないと非常に厳し
かったそうです。それに加えて古関は、オーケストラ・スコアや
パート譜までていねいに書き、その通り演奏するよう求めたとい
われています。
 実は古関がスコアを重視したのは、それなりの理由があるので
す。流行歌の世界では、作曲家が作るのは詞に合わせたメロディ
だけであり、それを基にアレンジャーが曲として仕上げるという
スタイルが定着しているそうです。したがって、楽譜が書けない
作曲家も実際には存在するのです。
 前にも述べたように、古関は流行歌作曲家として一段低く見ら
れていたフシがあり、せっかく古関のオーケストラのスコアがつ
いていても、曲の一部がカットされたり、オーケストラのスコア
全部を他の編曲者がやるという、普通では考えられないような失
礼なことも行われていたようなのです。
 これに関して、藍川由美氏は自著において次のように書いてい
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『しかし、そういった当時の演奏家の限界を知りながらも、古
 関は理想を曲げることなく自らの書法を貫いた。十代の頃から
 常に「世界」を意識していた古関は、きちんとした楽譜さえ残
 しておけば、いつの日か必ず正しく演奏される日が来ることを
 信じられたのであろう。時代や慣習に流されない立派な態度で
 ある。古関の自筆譜に向き合うことで、こうした生きざまに触
 れ、私は流行歌は下品で、芸術歌曲は高級というような思い上
 がった考え方がいかに空虚なものであるか知った』。藍川由美
 著、『これでいいのか、にっぽんのうた』/文春新書)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 軍歌についてはもう少し続けますが、古関裕而については今回
で終了するので、最後に興味ある情報を提供します。
 よくデパートやレストランなどで、最後に「蛍の光」が演奏さ
れますね。これはただの「蛍の光」の演奏ではなく、ある特定の
楽団のものを使っているケースが多いのです。
 それはユージン・コスマン楽団の演奏による「別れのワルツ」
なのです。この楽団の演奏は、哀愁切々としており、2番はヴァ
イオリン、3番はかなり凝ったアレンジをしています。これを聞
くと例のセリフ「本日はご来店いただきまして、誠にありがとう
ございました。まもなく閉店時間でございます。またのご来店を
・・」が自然に口をついて出るほどです。
 実はこのユージン・コスマン楽団――これは古関裕而をもじっ
た仮の名前なのです。スコットランド民謡「蛍の光」は昭和24
年に公開された米MGM映画『哀愁』に使われたのですが、古関
はこれをベースに独特のアレンジを加え、コロンビアの洋楽盤と
して「別れのワルツ」というタイトルで発売したところ、これが
ロング・セラーとなって今も使われているのです。
 2番に流れる哀愁切々たるヴァイオリンは、一説によると厳本
真理の演奏といわれています。この盤は1956年に廃盤になっ
ているのですが、その後何度も再生盤が作られて現在にいたって
いるのです。
 私は、ユージン・コスマン楽団の原盤とその再録盤、それから
13年前の最新再現盤(コロンビア・シンフォネット演奏)の3
つを持っています。原盤は1953年の録音ですから、さすがに
音は最悪ですが、コロンビア・シンフォネットの再現盤の音は良
好で、古関裕而の編曲の妙を興味深く聴くことができます。
 古関裕而の曲は本人執筆の完璧なスコアが残っているので、再
生するのはきわめてラクなのです。
                −− [軍歌と日本人/07]
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2007年03月09日

●昭和までの日本はパトス・オンリーの国(EJ第832号)

 「軍歌」の話をそろそろしめくくる必要があります。そこで、
少し難しいテーマなのですが、林秀彦氏の「質の文明」と「量の
文明」について掘り下げてみましょう。
 林氏は、2001年9月11日の飛行機テロによるニューヨー
ク世界貿易センタービルの崩壊の映像に現在の日本の姿を見たと
いっています。自著『海ゆかば山ゆかば』の中で林氏は、そのこ
とを次のように表現しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『露出し、そそり立つ鉄骨の残骸は現実離れした悪夢の世界で
 あり――即ち日本の姿であり、舞い上がる砂塵は死臭そのもの
 を連想させ――即ち日本の姿だった』。(林秀彦著、『海ゆか
 ば山ゆかば』より。PHP研究所刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 なぜ、林氏は日本ではないよその都市のビルの崩壊の姿に現在
の日本の姿を見たのでしょうか。
 それは、林氏の本を熟読することによって、よく理解すること
ができます。それは、日本という国家国民の精神的な面の崩壊と
貿易センタービルの崩壊が二重写しになった結果であると思われ
るのです。日本はまさにそんな状態にあるのです。
 とにかく現在の日本は、国家という態をなしていないといわざ
るを得ないと思います。例えば、米国では、国旗である星条旗を
デザインしたTシャツを着たり、星条旗をデザインしたバッグを
持って歩いていても誰もおかしいとは思いませんが、日本で日の
丸入りのTシャツを着たり、日の丸をペインティングした車に乗
ったりしたら、完全に右翼であると思われてしまうでしょう。
 これは大変異常なことであり、林氏のいうように、日本という
国家が精神的に崩壊してしまっている証(あかし)といっても過
言ではないと思います。何かが壊れてしまっているのです。
 ところで、「愛国心」というものは、どのようなときに心に芽
生え、自覚されるものだと思いますか。
 国家国民という意識は、自分の国が他国によって侵略されたり
されようとしたときに自然に自覚されるものといわれます。国家
国民という意識が芽生えれば、そこに自然に愛国心というものが
付随して生まれてくるのです。
 しかし、欧米のように、隣接する他国との間で侵略が頻繁に繰
り返されている国では愛国心は自発的に生まれますが、日本のよ
うにほとんど他国との戦争を経験していない国では、容易なこと
で愛国心など生まれてはこないのです。まして、現在の日本は長
い間にわたって平和な時代が続いているので、完全に平和ボケし
ており、愛国心は死語になりつつあります。
 そういう意味において、明治政府がはじめて国家というものを
クリエートしたとき、一番困ったのはそもそも国家とは何である
かがはっきりしなかったことです。
 なぜなら、当時国家を支える精神的バックボーンであるとか、
国家を組み立てるシステムというものが何も分からず、完全に手
探りの状態であったからです。
 人間の認識や行動のしかたは、程度の差はあっても、ロゴス的
かパトス的かのいずれかに分類されます。ロゴスとパトスの違い
は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ロゴス ・・・・ 理性的・科学的・論理的
    パトス ・・・・ 情念的・感覚的・身体的
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 欧米の文明とは「ロゴスの文明」です。明治時代には、デモク
ラシーとか人権というロゴスの根本は何も理解されていなかった
のです。こういうロゴス文明をいちいち翻訳して啓蒙していたの
ではとても間に合わない――明治政府はそう考えたのです。
 それに、今でもそうですが、当時の日本はロゴスにはきわめて
弱い体質だったのです。そこで、日本は徹底的にパトス――つま
り、情操面を強調していくしかなかったのです。それが他の国で
は見られない「質の文明」を強調する結果となったのです。
 実は、かつて「万葉集」ではそれが行われているのです。もと
もと日本人は歌心を持っている国民であり、愛国心が自然に歌に
結びついたと思うのです。
 林氏によると、「万葉集」は日本のフォークソングのアンソロ
ジーであるというのです。なぜなら、「万葉集」のいたるところ
で大和の国が愛でられており、愛国心が徹底的に歌われているか
らです。それに、「万葉集」のどの歌も高度の芸術性を持ってお
り、それが庶民によって歌い継がれている点もフォークソング的
であるということができます。
 明治政府のやったことは、「万葉集」の歌の精神を洋楽で歌っ
たことです。林氏はそれが軍歌であり、それは、必ずしも戦争を
意識した歌ばかりではなく、一種の国民歌――フォークソングと
いってもいい――として全国民に歌われたのです。
 いくつか例をあげてみましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ≪朝日に匂う桜花≫
  朝日に匂う桜花 春や霞める大八州 紅葉色映え菊薫る
  秋空高く富士の山 昔ながらの御柱と 立ててぞ仰ぐ神の国

  ≪愛国行進曲≫
  見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌と
  希望は踊る大八州(おおやしま)
  おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ
  金おう無欠揺ぎなき わが日本の誇りなれ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とくに愛国行進曲――現在60歳を越える年齢の人であれば、
歌詞を見るだけで、自然にメロディが口をついて出てくるはずで
す。こういうパトスが当時徹底的に国策として使われたのです。
これは、欧米の「量の文明」に「質の文明」で対抗したことを意
味しているのです。       −− [軍歌と日本人/08]
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2007年03月12日

●ホームソングとして歌われた軍歌(EJ第833号)

 かつての日本の歌には、学校で歌う「唱歌」と子供向けの「童
謡」、加えて戦前前後を通してNHKがその普及に努めた「国民
歌謡」と「ラジオ歌謡」、そして戦時歌謡としての「軍歌」と学
校の「校歌」や「応援歌」、そして大衆歌としての「流行歌」が
あります。
 そういう歌の分類はあるにせよ、当時の歌は家族の共有財産の
ようなものであったことは確かなのです。どの歌も家族全員で歌
えたからです。そういう意味で当時は軍歌も含めて一種のホーム
ソングになっていたということができます。
 現在のように、息子や娘だけが知っていて、親にはさっぱりわ
からないロックやニューミュージックの類いはなかったのです。
逆にそれだけ歌う歌が少なかったといえます。そのため、唱歌も
国民歌謡も軍歌も、あらゆる年齢層の人が、ホームソングとして
歌ったのです。
 ちなみに「戦時歌謡」と「軍歌」は分けて考えるべきかも知れ
ません。というのは、日本が戦争に突入する前後のいわゆる「軍
歌」は、軍部から作ることと歌うことへのかなりの強制があった
国策としての歌とそうでない歌があり、後者の強制のなかった歌
は「軍歌」ではなく「戦時歌謡」と呼ぶべきであるからです。
 とくに古関裕而の「露営の歌」(勝って来るぞと勇ましく)は
大衆の心から生まれた歌であり、軍の命令や強制は一切なかった
からです。したがって、これは「戦時歌謡」というべきです。
 古関は、音楽の形式としては、軍楽隊が演奏するのに相応しい
マーチ形式をとりながら、その内容は死出の旅に向かう人々の鎮
魂歌として作曲しているのです。軍部は当時歌詞にはうるさかっ
たものの、音楽に関してはあまり注文をつけなかったそうです。
 もうひとつ「軍歌」のジャンルに入っているものの、音楽も歌
詞も死出の旅の鎮魂歌といえる歌に「戦友」があります。これは
真下飛泉の長い歌詞に三善和気が作曲した名曲中の名曲であり、
「露営の歌」と並んで戦時歌謡の名曲といえます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ここはお国を何百里 離れて遠き満州の
   赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下
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 この歌はよく歌われる部分だけでも14番まであり、これは歌
というより、一編の物語といえると思います。当時は娯楽といえ
ば、映画かラジオで歌われる歌しかなく、歌にドラマ性を持たせ
る試みが行われていたといえます。
 この歌を使っての物語性というか、映像化を意識したと思われ
る歌に「空の勇士」というのがあります。これは、林秀彦氏が、
あのフランク・シナトラに歌わせたかっといっているほど、好き
な歌であると告白しています。「空の勇士」の作詞は大槻一郎、
蔵野今春の作曲です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   恩賜の煙草戴いて 明日は死ぬると決めた夜は
   曠野(こうや)の風もなまぐさく ぐっと睨んだ敵空に
   星が瞬く 二つ三つ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この歌はこういうように始まるのです。まるでドラマのプロロ
ーグそのものといえます。歌詞の「明日は死ぬると決めた夜は」
の部分は軍部からクレームがついて実際に歌われたのは「明日は
死ぬぞと決めた夜は」になったそうですが、これは詩としては、
改悪というべきです。
 ところで、余談ですが、「恩賜の煙草」というのがついこの間
まであったのをご存知でしょうか。この煙草は、天皇陛下から頂
戴する煙草で、吸い口の近くに金色で菊のご紋章が入っているの
です。これが勲章などと一緒に下賜されていたというのです。美
智子皇后は、たばこは身体によくないとして、長い間かけて恩賜
の煙草をやっと廃止して、お菓子を今までの1個から2個に増や
したということが新聞に出ていました。
 さて、「空の勇士」の2番はこうなります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   すわこそ征けとの命一下 さっと羽ばたく荒鷲に
   何をこしゃくな群雀(むらすずめ)、腕前見よと体当たり
   敵が火を噴く堕ちてゆく
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 林氏は「一下」という文字がワープロで変換できず、すでに日
本語として死語になっていると嘆いています。林氏はさらに「悲
壮」(これは変換できる)という言葉も死語になっていると指摘し
ています。
 「悲壮」を『広辞苑』で引くと「悲しい結果が予想されるにも
かかわらず、雄々しい意気込みのあること」と出ていますが、林
氏はもはや日本人はそんな意気込みを二度と持つことはあるまい
といっています。これは私も同感です。
 3番をご紹介しましょう。まるで、そういう光景が目に浮かん
でくるようです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   機首を回(かえ)した雲の上 いまの獲物を見てくれと
   地上部隊に手を振れば どっと揚がった勝どきの
   なかの担架が目に痛い
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 紙面の関係上4番を省略して5番をご紹介します。これは定番
のしめくくりです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   世界戦史に燦然と 輝く陸の荒鷲へ
   今日も打ち振る日章旗 無敵の翼 とこしえに
   守る亜細亜に栄えあれ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 われわれは何かおぞましいものを見るように当時の歌を見ては
いけないと思います。若い人も軍歌に何かを感じていただければ
幸いです。           −− [軍歌と日本人/09]
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