2007年03月13日

●ウィーンにおけるオザワの評価(EJ第1011号)

 この記事は、2002年12月に記述されたものの再現版であ
ることをお断りしておきます。
 年末年始になると、きまって話題になるのがウィーン・フィル
というオーケストラです。元旦の夜には、NHKテレビでニュー
イヤーコンサートが放映されることも、このオーケストラが年末
年始に話題になる原因でもあります。
 まして、今年の元旦は、小沢征爾がニューイヤーコンサートの
指揮者として初登場したこともあって、例年以上にウィーンフィ
ルが話題になった年でもあったのです。
 ウィーン・フィルに関する本も多数出版されていますが、中で
も、現在、音楽プロデューサーとして活躍しておられる中野 雄
(たけし)氏の著作『ウィーン・フィル/音の響きの秘密』(文
春新書279)は、ウィーン・フィルに関する情報満載の好著で
あるといえます。
 ところで、今年のウィーンの秋の音楽の話題は「オザワ」一色
であったようです。小沢征爾が国立歌劇場の音楽監督として指揮
した初のオペラは、ヤナーチェク作曲の『イエヌ−ファ』だった
のですが、これが大好評だったからです。
 今年のニューイヤーコンサートのオザワの指揮ぶりについては
EJでも取り上げた通り、大変見事な演奏だったのですが、日本
国内の批評家や演奏家によると、賛否両論に分かれるのです。
 EJでも取り上げた音楽評論界の大御所的存在である吉田秀和
氏は、2001年のニューイヤーコンサートに登場したニコラウ
ス・アーノンクールの指揮はつまらないと切り捨てたうえで、オ
ザワの指揮を絶賛しています。しかし、ウィーン・フィルの方は
このアーノンクールを大変高く評価しており、2003年のコン
サートはアーノンクールに決まっているのです。
 昨年のニューイヤーコンサートを現地で聴いたピアニスト西野
真由さんは、次のようにいっているのです。
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  現地で聴いたのですが、アーノンクールとウィーン・フィル
 のコンビには、匂い立つような気品が感じられました。小澤さ
 んの指揮には、テレビで見た限りですが、あの気品は備わって
 いないみたい・・・/西野真由さん
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今年のニューイヤーコンサートのリハーサルのときの秘密の情
報があります。オザワは、ワルツ独特の微妙な揺れがうまくでき
ずに、テレビが入っていない日は、一曲終るごとにコンサートマ
スターを隅っこに呼んで、険しい表情で指導していたそうです。
とても険悪なムードで、廊下でオザワとすれ違った団員も肩をす
くめる始末だったようです。本番の指揮者と団員の和やかなムー
ドからは信じられないような話ですね。
 ヨハン・シュトラウスの作ったウインナワルツのリズムは、演
奏のさい、2拍目が微妙に長くなるのだそうです。楽譜には4分
音符が3個並んでいるだけなのですが、あれを楽譜に忠実に演奏
したら、ウィンナ・ワルツにならないし、少なくともヨハン・シ
ュトラウスの音楽にはならないのです。オザワはそれに悩んでい
たのではないでしょうか。
 中野氏によると、今年のニューイヤーコンサートの最大のでき
は、ワルツ「ウィーン気質」だというのです。この曲は、オザワ
の強い要望で加えられたプログラムだったそうです。
 中野氏が何をもって「最大のでき」と判定したのかというと、
この曲の終了後、オザワと握手を交わしているコンサート・マス
ター、ライナー・キュッヒルの表情がとても満足しているように
見えたからといっているのです。キュッヒルという人は、なかな
かこんな嬉しそうな顔はしない人だそうです。
 中野氏は、ウィーン・フィルのメンバーととても親しく、実際
に会って話す機会も多いので、そういうことがいえるのです。確
かに、DVDで確認してみると、キュッヒルは嬉しそうな表情を
浮かべています。映像時代の音楽鑑賞は、こういうことがあとか
らできるので、便利なのです。
 中野氏がこのライナー・キュッヒルにインタビューしたとき、
「良い指揮者とは、どういう指揮者をいうのですか」と聞いたの
です。そうしたら、キュッヒルは間髪を入れず、こう答えたとい
うのです。
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   私たちの音楽を邪魔しない指揮者のことをいいます
             ――ライナー・キュッヒル
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 とにかく、ウィーン・フィルというオーケストラは誇り高いの
です。実際にそうであったかどうかは闇の中ですが、今年のニュ
ーイヤーコンサートのリハーサルにおいて、ウィーン・フィル対
オザワは、決裂寸前までいったようなのです。中には、次のよう
な激しいことばも裏では囁かれたというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 古いウィーンの町。そこで暮らした人々の哀歓が染みついたア
 パートの壁紙とカーテン。そんなシミの意味も理解できないよ
 うな男にシュトラウスの音楽が振れてたまるか!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                 −− [小沢征爾論/01]

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2007年03月14日

●ウィーン歌劇場は伏魔殿である(EJ第1012号)

 小澤征爾の正式な職名は、「ウィーン国立歌劇場音楽監督」と
いうものです。これと、ウィーン・フィルハーモニー(以下、ウ
ィーン・フィル)とはどういう関係にあるのでしょうか。
 ウィーン・フィルのメンバーは、すべてウィーン国立歌劇場の
楽団員です。もっと、具体的にいうと、ウィーン国立歌劇場付属
の管弦楽団なのです。いうまでもないことながら、演奏する曲は
オペラに限られます。
 しかし、世界有数の演奏家たちを抱えるオーケストラですから
オペラしか演奏しないのはあまりにも、もったいない話です。そ
こで、オペラ以外の曲も演奏することになり、そのときだけ、オ
ーケストラの名前をウィーン・フィルハーモニーと名づけること
にしたのです。
 しかし、このオーケストラ――本当に超保守的にして、超閉鎖
的なオーケストラなのです。それは、「自分たちのスタイル」に
非常に強いこだわりを持っているからです。
 その「自分たちのスタイル」をあらわすのが、次のような基本
ルールの存在です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.音楽監督や常任指揮者を置かない
  2.ウィーン音楽院出身の演奏家しか採用しない
  3.女性演奏家は採用しない
  4.使用する楽器は、オーストリア製のものを貸与する
  5.現在のメンバーに直接指導を受けたものを採用する
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 これらの基本ルールは、長い年月の間に少しずつ崩れてはいま
すが、基本線は守られているのです。
 このように書くと、「音楽監督を置かないといっているけど、
オザワがいるじゃないか」と不審に思う人もいるかも知れません
ね。ややこしい話なのですが、小澤征爾はウィーン歌劇場の音楽
監督であって、ウィーン・フィルの音楽監督ではないのです。し
かし、メンバーは同じなのですが・・・。
 ですから、ニューイヤーコンサートの指揮者選びなどについて
は、オザワには何の権限もないのです。このことをアタマに置く
と、このオーケストラの性格がよくわかると思います。
 このたびオザワが手にしたウィーン国立歌劇場音楽監督という
地位がどのような地位であるか――少していねいに検証してみる
ことにしましょう。
 歌劇場にはランクがあります。音楽関係者に聞くと、必ず次の
2つをあげます。歌劇場の双璧というわけです。
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 1.ウィーン国立歌劇場 ・・・ ドイツ・オーストリア
 2.ミラノ・ スカラ座 ・・・ イタリア
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 もちろん、これに異論のある人もいて、次のどちらかを加えて
3大歌劇場とすべきだという人もいます。
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 3.コヴェントガーデン国立歌劇場 ・・・ イギリス
 3.メトロポリタン歌劇場 ・・・・・・・ アメリカ
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 しかし、歴史と伝統、音楽監督、指揮者、演出家の顔ぶれ、登
場した歌手たちのレベルという要素を勘案すると、「首位が2つ
あって3位なし」ということになってしまうのです。
 ドイツ・オーストリアには、モーツァルト、ワーグナー、リヒ
ャルト・シュトラウスなどの名作がめじろ押しであるし、イタリ
アは、ロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニをはじめとして、綺
羅星のごとく有名な作曲家群がいるのです。これには、イギリス
やアメリカも対抗不能です。
 ドイツ・オーストリア、イタリアは、それぞれの母国語のオペ
ラだけでもプログラムが組めるのです。それに加えて、ドイツに
しても、オーストリアにしても、イタリアにしても、優れた客層
――質の高い鑑賞眼を持ち、優れた耳を持つ客層がおり、それに
公正な評論家とそれを正しく伝えるメディアが、歌劇場の水準の
維持、向上に貢献しているのです。
 この点日本にはオザワのような傑出した音楽家はいるにしても
肝心の客層が育っていないことを痛感します。これは、私がクラ
シック・コンサートに通い出してから、40年以上になりますが
いつも痛ずることです。
 このように考えると、ウィーン国立歌劇場は、ミラノ・スカラ
座とともに歌劇場の双璧であるといえるでしょう。オザワは、そ
の一方の音楽監督なのです。これは、大変な地位であるとともに
その地位を維持し、長く続けるのがいかに大変であるかは歴史が
物語っているのです。
 ウィーン国立歌劇場の音楽監督の地位に就いた指揮者を上げる
と、グスタフ・マーラー、ワインガルトナー、シャルク、リヒャ
ルト・シュトラウス、クレメンス・クラウス、ベーム、カラヤン
マゼール、アバドなど、指揮界の巨匠の名がずらりと出てくるの
です。しかし、ほとんどは、ごく短期間でその名誉ある地位を投
げ出し、あるいは放逐されているのです。それほど、この地位を
守り抜くことは難しいのです。
 この中にあって、もっとも長くその地位にあり、帝王といわれ
たあのカラヤンでさえ、「二度とこの街で指揮棒をとるつもりは
ない」という捨て台詞を残して、ウィーン国立歌劇場音楽監督の
座を降りているのをみても、オザワの手に入れた地位の維持は難
しいのです。
 日本の外務省のことではありませんが、歌劇場は「伏魔殿」と
いわれています。中野氏の表現によれば、権力と金と、愛欲の色
模様が華やかな舞台裏に展開し、指揮者、演出家、歌手などが芸
術家人生を賭けて競う合う場――まるでオペラそのもの――であ
るからです。しかし、私はオザワが何かをやってくれることを信
じてはいますが・・・。      −− [小沢征爾論/02]

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2007年03月15日

●オーケストラが指揮者を拒否する事件(EJ第1013号)

 昨日のEJで述べたように、オザワはウィーン国立歌劇場の音
楽監督ですが、ウィーン・フィルにとっては、単なる客演指揮者
に過ぎないのです。したがって、たとえオザワであってもウィー
ン・フィルが演奏を拒否することはあるのです。もちろん、そん
なことをすれば、人間関係は一気に悪化してしまいますが・・。
 ウィーン・フィルほどの一流オーケストラになると、指揮台に
立つ音楽家の、現在の実力を瞬時に見破ってしまいます。彼らに
対しては、過去の名声や地位はまったく通用しないのです。した
がって、高名な巨匠といえども、ウィーン・フィルの指揮台に立
たせてもらうためには、今日の自分の実力が昨日のそれと同じで
あってはならないのです。大変な勉強が必要なのです。
 ウィーン・フィルのコンサート・マスターであるライナー・キ
ュッヒルは、「あの人は勉強しなくなった。だからもう招(よ)
びません」とよくいうそうです。ウィーン・フィルを振るという
のは、それほど難しいのです。
 ウィーン・フィルの演奏拒否事件としては、1869年の「ブ
ラームス事件」が有名です。ブラームスは、1862年にハンブ
ルグからウィーンに移住してきたのです。
 当時ウィーンは、フランツ・ヨーゼフ一世が軍部の強硬な反対
を押し切って城壁を撤去し、首都の再開発を行っていたのです。
宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)をはじめ、豪壮華麗な公共建築
物が次々と建築され、街全体が活気にあふれていたのです。
 ブラームスは、移住の翌年にはウィーン・フィルと演奏会を行
うなど、ウィーンで上々スタートを切っています。この演奏会で
ブラームスが取り上げたのは自身の2つの「セレナード」――第
1番ニ長調と第2番イ長調の2つです。これを皮切りにブラーム
スは、着実にその評価を高めていきます。
 しかし、ウィーンへの移住7年目の1869年12月のコンサ
ートで、ブラームスは再び「セレナード第1番ニ長調」を取り上
げようとします。ところが、ウィーン・フィルの数人の楽員がリ
ハーサルのさい、「こんな作品は弾きたくない」と拒否宣言をし
たのです。
 ブラームスは激怒し、ウィーン・フィルとの契約解除を宣言し
ます。しかし、中に入った人たちの努力によって決裂はまぬがれ
コンサートは無事に終了したのです。ブラームスにして、この有
様ですから、多くの著名な音楽家も似たような目にあっているの
です。練習再開に当ってブラームスは、楽団員に対して次のよう
にいったそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あなた方は私の作品の演奏を拒否されました。あなた方が私の
 曲をベートーヴェンのそれと比較してそのようなことをおっし
 ゃるなら『あのような高さにある作品は二度と創造されること
 はないであろう』と申し上げるしかないでしょう。しかし、私
 の作品は、私のベストを尽くした芸術的信念から産み出された
 ものです。この曲が、あなた方の演奏に値いしないものではな
 いことを、ぜひ、お解りいただきたい――ブラームス
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 18日夜、NHKテレビでベートーヴェンを取り上げていまし
たが、この当時すでにベートーヴェンの評価は絶対的だったので
す。ブラームスは、そのベートーヴェンが名作を書き続けた同じ
ウィーンで、作曲家として個を確立するのは大変だったと思いま
す。そのプレッシャーからか、ブラームスは、ベートーヴェンが
得意とするピアノ・ソナタや弦楽四重奏の分野では、名作を生み
出せていないといわれています。
 このように、ウィーン国立歌劇場や、ウィーン・フィルという
オーケストラは、指揮者にとって大変やっかいで扱いにくいオー
ケストラなのです。音楽家といっても、オケの楽員は昔かたぎの
職人であり、頑固一徹者が多いのです。指揮者はそういう人たち
をまとめなければならないのですから大変なのです。
 ところで、実は小澤征爾も若いとき、演奏拒否の洗礼を受けて
いるのです。演奏拒否をしたのはウィーン・フィルではなく、N
HK交響楽団です。
 1962年6月、オザワは、N響と半年間の指揮契約を結んで
います。その当時オザワは、1959年にブザンソン国際指揮者
コンクールで優勝、1960年にはベルリンでヘルベルト・フォ
ン・カラヤンの弟子を選出するコンテストで優勝、同じ年の7月
には、タングルウッド音楽祭の指揮者コンクールに優勝、そして
1961年4月には、レナード・バーンスタインが率いるニュー
ヨーク・フィルの副指揮者に就任しています。
 N響との指揮契約もそういう実績をふまえてのものだったので
す。そして、1962年7月にはオリヴィエ・メシアンの「トゥ
ランガリラ交響曲」を作曲家立ち会いのもとでN響を指揮し日本
初演をやっているのです。
 この年の秋、オザワは、N響と東南アジア演奏旅行を行うなど
旺盛な活動を行ったのですが、なぜか楽員との対立が激化してし
まうのです。そして、遂にN響の楽員代表から成る演奏委員会が
「オザワとの演奏会や録音には今後一切協力できない」という申
し入れを事務局に提出する事態になってしまうのです。
 その後も話し合いは行われましたが、1962年12月に予定
されていたベートーヴェンの「第九」公演が中止に追い込まれ、
オザワとN響の関係は決裂してしまいます。きっと、オザワにも
問題があったのだと思いますが、N響も少し大人げないふるまい
といわれても仕方がないでしょう。何が原因なのか、今もってわ
かっていないのです。私は1958年にはN響の定期会員になっ
ていましたので、このことをよく覚えています。
 オザワが再びN響の指揮台に立ったのは、それから32年後の
1995年1月のことです。公演の一週間前に発生した阪神・淡
路大震災の犠牲者追悼、被災者救済の意味合いもこめられていた
のです。32年後の歴史的な和解のコンサートは、バッハの祈り
で始まり、バッハの祈りで閉じられたのです。
                 −− [小沢征爾論/03]

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2007年03月16日

●オザワとウィーン・フィルの歴史(EJ第1014号)

 オザワがはじめてウィーン・フィルにデビューしたのは、19
66年8月のザルツブルグ音楽祭のときです。プログラムはシュ
ーベルトの交響曲第5番、シューマンのピアノ協奏曲(ソロはア
ルフレッド・ブレンデル)、ブラームスの交響曲第2番だったの
です。当時オザワは30歳の新進指揮者でした。
 ウィーン・フィルが新しい指揮者を起用するときは、いきなり
定期公演(年10回)に招くことはなく、とりあえずザルツブル
グ音楽祭でその実力のほどをテストするのがしきたりです。クラ
ウディオ・アバド、ズービン・メータも同様だったのです。
 これはウィーン・フィルに限ったことではないのですが、若い
指揮者はオーケストラから各種のいじめを受けます。わざと棒に
逆らった演奏をしてみたり、わざと間違えて反応を試してみたり
解釈に異議を唱えて指揮台で立往生させたり、いろいろやられる
そうです。伝統あるオーケストラにはそういう楽員が必ず何人か
いるのです。
 オザワは、1969年7月のザルツブルグ音楽祭で、ウィーン
・フィルを指揮してモーツァルトの歌劇「コシ・ファン・トゥッ
テ」を演奏しています。ウィーン・フィルとのオペラ初デビュー
です。しかし、このときは、声楽陣、演出・美術・衣装が冴えず
不評を買っています。これによって、オザワとウィーン・フィル
との関係は10年以上遠のくのです。
 1973年のシーズンからオザワはボストン交響楽団第13代
音楽監督に就任し、世界の音楽界での地位を向上させていったの
ですが、ウィーン・フィルを再び指揮したのは、1982年8月
のザルツブルグ音楽祭でのことです。このときは、ヨーヨー・マ
とハイドンのチェロ協奏曲第1番ハ長調、チャイコフスキーの交
響曲第4番などでした。
 そして、オザワとウィーン・フィルとの友好関係が完全に築か
れたのが、1984年5月のウィーン音楽祭での演奏なのです。
このとき演奏されたストラビンスキーの「春の祭典」が大きな賞
賛を博したからです。
 このときのオザワの逸話が伝わっています。オザワはウィーン
・フィルがかつて演奏した「春の祭典」のテープを繰り返し聴き
うまくいっていない部分を発見します。それは、ウィーン式管弦
楽器の構造や演奏者の不慣れに起因するそのオーケストラの泣き
所だったのです。
 オザワは、練習のさい、その部分から練習をはじめたところ、
ウィーン・フィルの楽員はそのオザワの下調べには舌を巻いたと
いわれます。そして、その結果、今でも語り草になるほどの歴史
に残る快演につながったのです。
 そして、1988年5月、オザワはウィーン国立歌劇場へのデ
ビューを果たします。作品は、チャイコフスキーの歌劇「エフゲ
ニー・オネーギン」です。この演奏も大成功で、ウィーンのオペ
ラ・ファンの間でオザワの評価は一気に上がったのです。
 このときオザワは、オペラの公演が終った深夜にザルツブルグ
に移動し、翌朝11時のベルリン・フィル・コンサートに備える
という超ハード・スケジュールをこなしています。
 そして、1989年の夏にカラヤンが亡くなるのです。カラヤ
ンはつねにオザワの良きアドバイザーとして、よく面倒を見てお
り、オザワはカラヤンを深く尊敬していたのです。カラヤン死す
との報が届いたとき、オザワはタングルウッド音楽祭で指揮をし
ていたのですが、オザワは1日だけザルツブルグに飛び、カラヤ
ンの追悼式に参加しています。そして、バッハの「アリア」を演
奏しているのです。
 カラヤンとオザワについてこんな話があります。1961年2
月にオザワははじめてベルリン・フィルを指揮しています。曲は
ブラームスの交響曲第1番だったのですが、その会場にはカラヤ
ンは姿を見せていたのです。
 演奏終了後、カラヤンはオザワを車で自宅に連れて行き、第1
楽章の冒頭から最終楽章のコーダまで、すべての小節について講
義をしたのです。「このフレーズは君の指揮に問題がある」とか
「これはオケがわるい」というように、すべての楽句、すべての
楽器について詳細に批評してみせたといわれます。その講義は、
実に3時間にも及んだのです。
 そして、1990年1月、ウィーン・フィルははじめてオザワ
を定期公演に招くのです。これは、オザワが名実ともにこのオー
ケストラからファミリーとしての待遇を得ることになったことを
意味しているのです。曲は、バルトークの「管弦楽のための協奏
曲」だったのです。
 ウィーン・フィルを初演して実に25年後にしてはじめて、ウ
ィーン・フィルはオザワを認めたことになります。そして、次の
年、1991年5月に、オザワとウィーン・フィルとの初レコー
ディングが行われます。曲はドヴォルザークの交響曲第9番「新
世界より」だったのです。ウィーン・フィルの場合、オケの方か
ら録音の申し入れが行われるのが普通のようです。
 レコーディングについては、不思議なことがひとつあります。
というのは、オザワは、ベートーヴェンとブラームスの交響曲全
集のCD録音をしていないことです。どうしてなのでしょうか。
 オザワがウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任した今年の9月
には、次期ベルリン・フィルの音楽監督が内定している英国生ま
れのサイモン・ラトルとウィーン・フィルによるベートーヴェン
の交響曲全集が発売されているのです。
 この企画はウィーン・フィルの方から提案があったそうですが
ラトルは「私でいいのか」と聞き返したといわれています。ラト
ルとしてはそれほど意外だったのでしょう。どうしてオザワには
そういう話がこないのでしょうか。それともオザワが時期を見て
いるのでしょうか。現在、CDショップでは、オザワとサイトウ
・キネン・オーケストラの「第9」が売れに売れています。
                 −− [小沢征爾論/04]

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2007年03月19日

●まるで亡命音楽家のような小澤征爾(EJ第1015号)

 ここまで主としてオザワとウィーン・フィルとの関係について
書いてきました。しかし、現在のオザワを語るに当って、29年
に及ぶボストン交響楽団との関係と、オザワが今一番大切だと考
えているサイトウ・キネン・オーケストラとの関係について述べ
る必要があると思います。27日までのEJはそのことについて
述べることにします。
 米国が、音楽の世界で、なぜ覇権を握ることができたのでしょ
うか。それは、1919年に起こったロシア革命、1930年代
にヨーロッパに覇権を確立したナチスとイタリアのファシズムを
抜きには考えられないことなのです。
 まず、ロシア革命を契機に故国を見捨てたロシアの著名な音楽
家が続々と亡命し、米国を第2の故郷として、そこに西欧のクラ
シック音楽を定着させるということが起こっています。
 名前をあげると、ストラヴィンスキー、プロコイエフ、ラフマ
ニノフ、クーセヴィツキー、ハイフェッツ、ホロヴィッツ、ルー
ビンシュタイン、ピアティゴルスキー――こういう音楽史に不滅
の名を刻むことになる巨匠・名人が続々と米国に乗り込んできた
のです。これは、大変な影響力であるといえます。
 それから1930年代には、トスカニーニ、ワルターといった
大指揮者、シェーンベルク、バルトーク、クライスラーなどの大
作曲家が米国にやってきて、終生の居を定めたのです。
 これらの大音楽家たちは各地のオーケストラに入団したり、音
楽大学などで教職に就くなどして、その影響力を徐々に拡大して
いったのです。そして、数十年を経て米国の地に、いわば「国籍
不明の音楽文化」を創り上げ、それが全世界的に大きな影響を及
ぼしていったのです。
 もし、日本の音楽家が1人も海外に行かなくなったとしても、
世界の音楽界には何の影響も与えないでしょう。しかし、世界の
音楽家たちが1人も日本にこなくなったら、日本の音楽界は数年
でダメになることは確実である――といった人がいます。幸いに
して、日本には世界の多くの音楽家がやってきますが、これは日
本の音楽界に多くの影響を与えているのです。亡命音楽家が米国
の音楽界に与えた影響はきわめて大きいのです。
 現在、米国――とくに北米では、どのような大都市でも原則と
してその都市を代表するオーケストラが1つ置かれ、その地域で
音楽に関心のある企業や市民の献金によってオーケストラは運営
されているのです。その点、東京やロンドンやパリなどのように
官民放送メディアなどの大スポンサーを持つオーケストラが乱立
している現状とは大きく異なるのです。
 ボストン交響楽団は、デビュー当時からオザワに目をつけ、高
い評価を与えていました。そして執拗にオザワの獲得に走ったの
です。その熱心さは異常ともいえるものだったのです。
 それに比べて日本の音楽界は、オザワに対してあまりにも冷た
かったといえます。1962年オザワと指揮契約を結んだN響は
オザワとトラブルを起こし、その年の12月の定期と「第9」の
公演を一方的にボイコットしたことは既に述べました。
 当時のN響は、日本のトップ・オーケストラであることを鼻に
かけ、きわめて官僚的だったのです。とくに新進気鋭の若手の音
楽家には厳しく当る傾向が強く、欧米のコンクールで優勝を連発
していたオザワには含むものがあったと思われます。
 「第9」は、上野の東京文化会館で行われる予定であり、オザ
ワは契約通り終演時間までN響を待ったのですが、N響の楽員は
誰一人として姿をあらわさなかったのです。
 これに対して、1963年1月15日、井上靖、三島由紀夫、
石原慎太郎、大江健三郎、一柳慧などの作家・文化人有志らが発
起人となって「小澤征爾の音楽を聴く会」が開かれたのです。そ
のとき協力したのが、日本フィルハーモニー交響楽団だったので
す。日フィルはこれが遠因で1972年に解散することになるの
ですが、これはあとで述べます。
 さて、N響に振られて失意のオザワに声をかけたのは、米国の
シカゴ交響楽団でした。1963年8月にシカゴ交響楽団が出演
する「ラヴィア音楽祭」にジョルジュ・ブレートルのピンチヒッ
ターとして出演して欲しいという依頼がかかったのです。
 オザワは急遽米国に飛び、シカゴ交響楽団を指揮してドヴォル
ザークの「新世界より」を演奏します。これが賞賛を博し、19
64〜68年までの5シーズン、同音楽祭の音楽監督に就任する
ことになります。
 これを指をくわえて見ていたボストン交響楽団は、ラヴィア音
楽祭の音楽監督の期限切れを狙って、1968年1月に同交響楽
団の定期演奏会に招聘するのです。そして、オザワを説得して、
1970年6月からボストン交響楽団が主宰するタングルウッド
音楽祭の音楽監督の就任させることに成功します。
 当時のオザワはとくに米国では売れに売れていて、1970年
9月にはサンフランシスコ交響楽団の音楽監督にも就任している
のです。そのオザワが、なぜ1973年からボストン交響楽団の
音楽監督に就任したのにはワケがあるのです。
 1970年11月にオザワはボストン交響楽団で客演指揮をし
ていたのですが、そこに「父死す」との悲報が届くのです。その
父は、その年の12月に開かれるサンフランシスコ交響楽団の音
楽監督就任披露公演に出かけるのを楽しみにしていたのです。
 これに対してボストン交響楽団は急遽スケジュールを変更し、
オザワを帰国させるように計らったのです。義理固いオザワはこ
れに深く感謝し、1973年からボストン交響楽団の音楽監督に
就任することになったのです。
 一方、もともと日本で活躍したかったオザワは、1968年か
ら日本フィルの主席指揮者に就任して後進の育成に当ったのです
が、これを不満として、1972年にフジテレビと文化放送がス
ポンサーを降りたために、日本フィルは解散の憂き目に遇うので
す。それでもオザワはひるまず、その結果生まれた新日本フィル
ハーモニーの首席として、現在も指導を継続しているのです。
                 −− [小沢征爾論/05]

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2007年03月20日

●ボストン響でのオザワの2つの改革(EJ第1016号)

 米国のオーケストラには、実に明確なランク付けがあります。
一般的にいうと、オーケストラのランク付けとは、演奏の良し悪
しとか、CDをどのくらい出しているとか、観客動員数が多いと
か少ないとかを考えますが、そうではなく、予算規模――年間総
予算によるランク付けのことなのです。
 ボストン交響楽団の年間総予算は、7000万ドル(約80億
円)で、世界一です。これは、クリーヴランド管弦楽団やフィラ
デルフィア管弦楽団の倍であり、ニューヨーク・フィルやシカゴ
交響楽団の1倍半に該当します。
 米国では、このボストン交響楽団を中心に、シカゴ交響楽団、
ニューヨーク・フィル、フィラデルフィア管弦楽団、クリーヴラ
ンド管弦楽団の5つが予算規模と伝統を兼ね備えた「エリート・
ファイブ」といわれているのです。
 オザワが就任した当時のボストン交響楽団の基金は180万ド
ル、それが現在では2億5000万ドルになっています。また、
聴衆は年間160万人に達しており、ボストン交響楽団はオザワ
の時代に、財団の基金、年間予算額、年間聴衆数においていずれ
も世界一を達成しているのです。オザワは音楽監督としてだけで
なく、マネジメントにも優れているといえます。
 ですから、今回オザワが、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就
任したことをもって「快挙である」として大騒ぎをしていますが
ボストン交響楽団の音楽監督の実績を考えると、その資格は十分
過ぎるほどあるといえるのです。
 それでは、オザワはボストン響で何をしたのでしょうか。
 それは、次の2つに集約されると思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.ボストン響のサウンドの再構築
   2.ボストンのマエストロ像の変革
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 オザワが第一に取り組んだのは、ボストン響のサウンドを変革
することでした。オザワが音楽監督に就任した当時のボストン響
は、サウンドがフランス的で、音色は美しいが、重厚さに欠ける
ところがある――オザワはそう感じたのです。それは、ボストン
響がドイツ人とフランス人の音楽監督を交代させてきたことと関
係があります。
 オザワは、13代目の音楽監督ですが、初代から音楽監督を並
べると次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1.ジョージ・ヘンシェル  8.ピェール・モントウ
2.ウイリアム・ゲリッケ  9.セルゲイ・クーセヴィツキー
3.アルトゥール・ニキシュ 10.シャルル・ミンシュ
4.アミール・パウアー   11.エーリッヒ・ラインスドルフ
5.マックス・フィドラー  12.ウイリアム・スタインバーク
6.カール・ムック     13.小沢征爾
7.アンリ・ラボー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見ると、初代から6代まではドイツ系の音楽監督、7代
〜10代までは、9代のクーセヴィツキー(露)をのぞきフラン
ス系の音楽監督、そして、11代〜12代は短期ながら、ドイツ
系の音楽監督となっています。
 オザワ以前の12人の音楽監督のうち一番ボストン響のサウン
ドに影響を与えた音楽監督は、8代のピェール・モントウと10
代のシャルル・ミンシュです。そのため、重厚さはないが美しい
フランス的なサウンドを創り上げていたのです。
 しかし、ボストン響の主要レパートリーは、ドイツ・オースト
リア系のものが多いのです。そこでオザワは、フランス的な特色
を残しながらも、もっとパワーや音の深さが必要であると感じた
のです。とくに弦楽器は、もっと暗くて重い音が出せるように改
造しなければならないと考えたのです。
 最初のうちは楽員の抵抗は相当強かったようですが、オザワは
粘り強く説得を続けると同時に、ベートーヴェン、ブラームス、
マーラーといったドイツ的デパートリーを何回も取り上げたり、
クルト・マズアなどのドイツのベテラン指揮者を客演指揮者とし
て招き、練習と演奏を通じて自然にドイツ・サウンドや表現力を
出せるようにしたのです。
 そして、現在のボストン響は、フランス的特色を残しながらも
深く重厚なドイツ・サウンドも出せるオーケストラに変身してい
るのです。これはマエストロ・オザワの功績といえます。
 もうひとつのオザワのやった改革、「ボストンのマエストロ像
の変革」とは、何でしょうか。
 それはオザワが「アウトリーチ」に力を入れたことです。アウ
トリーチとは、音楽家がホールの外に出向いて、直接音楽で働き
かけることをいうのです。
 よく知られるように、ボストン響はタングルウッド音楽祭を主
宰しています。1937年のことですが、ボストン市民である2
人の女性が、緑豊かな210エーカーの土地「タングルウッド」
をボストン響に寄贈したのです。ときの音楽監督は、セルゲイ・
クーセヴィツキーでした。彼はそこに仮設のテントを張って、ベ
ートーヴェン・プログラムのコンサートを開いたのですが、これ
が、タングルウッド音楽祭のはじまりです。
 オザワは、このタングルウッド音楽祭に力を入れ、そこにタン
グルウッド・ミュージックセンターを作って、世界中からやって
くる若い音楽家たちにオザワをはじめ、ボストン響のメンバーが
手に手をとって教える――そのような教育面にとても力を入れた
のです。そしてオザワは、同じ試みを松本でもやっています。
 そして、もうひとつオザワはシェーンベルクやベルクを暗譜で
振る一方で、ボストン・ポップスを指揮し、ピープルズ・コンダ
クターとして慕われたのです。ボストン響の歴代音楽監督が誰も
やらないことをやったわけです。その結果、オザワが街を歩くと
誰もが気軽に声をかける、そんなマエストロになったのです。
                 −− [小沢征爾論/06]

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2007年03月22日

●西欧音楽の異邦人/小澤征爾(EJ第1017号)

 2002年4月20日――この日はオザワがボストン響を音楽
監督として指揮する最後の日になりました。昼夜で2回のコンサ
ートが行われ、マチネはベルリオーズの「幻想」であり、これは
オザワがボストン市民に感謝をこめた無料コンサートでした。
 夜はマーラーの「交響曲第9番」でした。午後8時過ぎにコン
サートは始まったのです。異例の3000人の聴衆総立ちで迎え
られたオザワは、客席への挨拶もそこそこにマーラーの世界に没
入します。オザワとボストン響の29年間の総決算のような、す
ばらしい演奏だったと翌日の新聞が伝えています。
 そして、最後のタクトが振り下ろされるや、嵐のようなスタン
ディング・オペレーションがホールを揺るがしたのです。オザワ
は楽員の一人ひとりと握手すると、ティンパニスト奏者のヴィッ
ク・ファースの手をとって舞台最前列に連れてきて、一緒に拍手
に応えたのです。
 ヴィック・ファースは、シャルル・ミンシュ時代から半世紀に
わたってティンパニストを務め、引退をマエストロ・オザワが辞
める日まで伸ばしてきて、この日に引退することを決めたという
のです。当日のプログラムにファースは次のような一文を寄せて
います。オザワがいかに敬愛されていたかを示す証でもあります
ので、ご紹介することにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 セイジさんと働くのは喜びであった。彼の並外れた指揮のテク
 ニックは、最も難しい音楽でさえも容易に理解しやすくした。
 彼の温かさと大きな音楽的才能を決して忘れないだろう。私は
 彼の音楽作りの技術に対する献身と熱愛に敬意を表する
                  ――ヴィック・ファース
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 翌日の新聞は、オザワへの賛辞と惜別で埋めつくされといって
よいと思います。ボストン市には、ボストン・グローブ紙とボス
トン・ヘラルド紙という2大新聞がありますが、両紙ともにトッ
プに大きなカラー写真で次のような見出しをつけたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ≪ボストン・グローブ紙≫
   「ブラボー・セイジ」
   「小澤 完璧な音とともに去る」
   「さよなら公演は感動的でかつ大胆」
  ≪ボストン・ヘラルド紙≫
   「セイジよ さようなら」
   「29年に渡る任期はマエストロの大勝利に終る」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょう。これほどの大指揮者であるオザワを日本の音楽
界は今まで何と冷たく扱ってきたことでしょう。確かにN響との
関係は修復されたとはいえ、まだそこに大きなわだかまりが存在
するのです。
 こんな話があります。この話は悪の伏魔殿/外務省が登場する
のです。誰もオザワを知らなかったときの話です。
 1959年、フランスのブザンソン指揮者コンクールの願書出
願の提出のさい、手続き不備で締め切りを過ぎてしまったときの
ことです。オザワはフランスの日本大使館に泣きついたのですが
相手にされず、アメリカ大使館に駆け込むのです。
 アメリカ大使館は、文化担当者であるマダム・ド・カッサがオ
ザワから事情を聞き、指揮者コンクールの事務局と折衝をしてく
れて、コンクール参加が特別に認められたのです。何と親切なこ
とでしょうか。日本の外務省は反省すべきです。
 そして、オザワはそのコンクールで優勝を果たすのです。その
ときの審査委員長は、あのシャルル・ミンシュだったのです。そ
の後、オザワの才能を見抜いて大音楽家として育てたのは、日本
ではなく、戦後の米国だったのです。少なくとも、日本はオザワ
に対して、嫉妬と無知のバッシングをしただけで、何もやっては
いないのです。
 しかし、オザワはあくまで、日本人であろうとし、子供は日本
にわざわざ戻して育てているのです。そして、彼がつねに次のよ
うにいっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 自分は日本人である。西欧クラシック音楽の世界における異邦
 人である――小澤征爾
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、オザワは超多忙にもかかわらず、タングルウッド音楽
祭に似せて、信州・松本で「サイトウ・キネン・フェスティバル
松本」を育て、今年で11回になります。
 桐朋学園に入学する前、オザワは当初ピアニストを目指してい
たのですが、来日していた巨匠、レオニード・クロイツェルの弾
き振りによるベートーヴェンの「皇帝協奏曲」に接して、指揮者
になろうと決意、新設の桐朋学園の指揮科に入学するのです。そ
のときの生徒はオザワただひとり。先生は、性格の激しさと、厳
格な精神的姿勢で有名な斉藤秀雄先生だったのです。
 世界のオザワの原点は、この齋藤式の音楽教育にあるといって
も過言ではないのです。オザワ自身もこれを受け継ぎ、サイトウ
・キネン・オーケストラして、後進の指導に当っているのです。
                 −− [小沢征爾論/07]
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2007年03月23日

●ニコラウス・アーノンクールとは何者か(EJ第1018号)

 ウィーン・フィルによる今年のニュー・イヤー・コンサートは
ニコラウス・アーノンクールの指揮で行われました。昨年はオザ
ワでしたが、アーノンクールは、2001年のニュー・イヤー・
コンサートに続いて2回目の登場です。指揮者を選ぶ権限は楽員
にあるということを考えると、アーノンクールはウィーン・フィ
ルの楽員に人気があるということになります。
 コンサートの雰囲気はオザワのときとは、かなり異なっていた
と思います。会場に飾られた花にしても、オザワのときは赤が目
立っていたのに今年は白一色と様相が一変していたのです。
 注目すべきは曲目です。このニュー・イヤー・コンサートでは
ヨハン・シュトラウス一家の作品を取り上げるのが基本原則なの
ですが、今回はウェーバーとブラームスの次の作品が取り上げら
れているのです。これはかなり珍しいことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウェーバー作曲、「舞踏への勧誘」作品65
 ブラームス作曲、「ハンガリー舞曲集」より第5番嬰ヘ短調
         「ハンガリー舞曲集」より第6番変ニ長調
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウェーバーのこの曲は、ワルツのお手本ともいうべき曲であり
ヨハン・シュトラウスはこの曲をベースにワルツを作曲したとい
われていること、それにブラームスはヨハン・シュトラウスと親
交が深く、ブラームスは彼の音楽を高く評価していたということ
――これがアーノンクールが取り上げた理由なのです。
 しかし、残念なことがひとつありました。アーノンクールはコ
ンサートの冒頭に「舞踏への勧誘」を持ってきたのですが、曲が
終る前に大拍手が入ってしまったことです。この曲は、もともと
はピアノ曲なのですが、ベルリオーズが管弦楽用に編曲してオー
ケストラで演奏されることが多いのです。
 最初に紳士が若い婦人に舞踏の相手を申し込む部分があり、オ
ケではチェロがその部分を担当するのです。そして、華やかに踊
りがはじまり、終了するのですが、そのあと紳士の感謝のことば
をあらわす部分があり、ここもチェロで演奏されます。
 ところが、踊りが終ったところで大拍手が入ってしまったので
す。アーノンクールはまずチェロに停止を命じ、観客に手で拍手
を制してから、チェロに演奏を指示しています。よく知られた曲
であることに加え、由緒あるウィーンのニュー・イヤー・コンサ
ートでの出来事であり、また、あとでCDやDVDとして商品化
されることも考えると、大変残念なことだと思います。
 しかし、その後の演奏は立派なものであり、オザワのときより
も、ウィーン・フィルの楽員たちが大変楽しく演奏しているのが
印象に残りました。アーノンクールといえば、ベルリン生れで、
オーストリアを中心に活躍している指揮者であり、今やウィーン
では飛ぶ鳥を落とすほどの人気指揮者なのです。
 また、アーノンクールはエキストラとしてですが、ウィーン・
フィルでチェロ奏者をしていたこともあり、楽員にとってはいわ
ばかつての仲間なのです。アーノンクールのように、ウィーン・
フィルの内部で演奏をしたことのある音楽家が、ニュー・イヤー
・コンサートを指揮するのはボスコフスキー以来のことです。
 しかし、このアーノンクールという指揮者は、少し変わった人
物なのです。それは、あのカラヤンと比較してみると、まるで正
反対の考え方の持ち主であることによってそういわれます。
 アーノンクールは1929年生まれであり、カラヤンよりも、
20年若いのです。彼は飛行機が嫌いで、日本には一度しかきた
ことはないのですが、今後もくることはないでしょう。それに対
してカラヤンは、日本はもちろん世界中を飛び回っており、プラ
イベート・ジェット機まで持っているのです。
 カラヤンがクラシックの国際化を目指し、世界中の人に聴いて
もらえるように努力したのに対し、アーノンクールは「クラシッ
クはヨーロッパのローカル音楽である」と明言しています。
 また、カラヤンが現代の楽器に合わせて独自の解釈で曲を演奏
したのに対し、アーノンクールは古い楽器を修理して復元させ、
昔ながらの音を再現しようと努力しています。そのため、アーノ
ンクールは「古楽の先駆者」といわれるのです。
 彼は1957年にウィーン・コンツェントス・ムジクスという
アンサンブルを結成し、バッハやモーツァルトを作曲家の時代の
流儀と称する演奏法で取り上げ、現在も続けています。
 カラヤンはポピュラーな曲を積極的に取り上げて録音し、LP
やCD化して販売し、世界中を演奏旅行をして回ることによって
音楽産業として発展させるのに成功しています。そして、このス
タイルを多くの有名指揮者たちは踏襲しています。
 しかし、アーノンクールは指揮をするオーケストラを絞り込み
飛行機が怖いということもあって、他の音楽家のように世界中を
演奏旅行することなどしないのです。
 しかし、カラヤンの後継者というべき有名指揮者――クラウデ
ィオ・アバド、ズービン・メータ、小澤征爾、リッカルド・ムー
ティたちを尻目に、アーノンクールは、いつのまにか、押しも押
されぬ大指揮者としての地位を築きつつあります。
 アーノンクールの演奏はお世辞にも美しいとはいえないもので
すが、そのアーノンクールが甘美な音楽を愛好するウィーンにお
いて受け入れられているのは注目すべきことです。
 2001年のニュー・イヤー・コンサートにおいて、アーノン
クールは、プログラムの冒頭において、コンサートの最後に演奏
することになっている「ラデツキー行進曲」のオリジナル版を演
奏しています。こういうウィーン音楽に精通しているアーノンク
ールをウィーン・フィルの楽員たちは尊敬しているのです。どう
やら、この勝負、オザワの負けのようです。
                 −− [小沢征爾論/08]

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2007年03月26日

●21世紀を代表する3つの『第九』(EJ第1019号)

 今朝は日本の年末の風物詩である「第九」について書きます。
昨年末には例年になく、次の3つの「第九」がほぼ同時にリリー
スされたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ベートーヴェン作曲 交響曲第9番二短調作品125≪合唱≫
  1.佐渡 裕指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団
    ワーナー/WPCS―11420
  2.小沢征爾指揮/サイトウ・キネン・オーケストラ
    フィリップス/UCCP−9424
  3.ラトル指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
    EMI/TOCE−55505
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら3つの「第九」は、いずれもライブ録音であり、しかも
特別価格1980円で手に入れることができます。私は3つとも
購入して聴いてみましたが、演奏はいずれも満足すべきレベルに
達しています。3枚とも購入してもソンはないと思います。
 3人の指揮者の中で一番年齢が若いのは佐渡裕の41歳です。
佐渡の「第九」の録音は、2002年8月17日に横浜のみなと
みらいホールにおいてライブで行われています。そのため「真夏
の第九」といわれているのです。
 「佐渡の指揮は熱い」といわれるので、若さにあふれた豪快な
第九を予想する人が多いかも知れませんが、実際は和声が重層的
に耳に届くように全体の音量はバランスがよく制御され、緊張感
をはらんで曲が展開されていきます。
 第3楽章のカンタービレも十分美しく、最近の佐渡の進境ぶり
をよく表わしています。そして、佐渡の真骨頂ともいうべき第4
楽章もよく全体が抑制され、バリトンの福島明也をはじめとする
独唱陣の健闘によってスケールの大きい演奏となっています。
 印象に残ったのは、第4楽章で最初に歓喜の主題があらわれる
前の異常に長いゲネラルパウゼ――総休止です。オーケストラで
第1楽章の主題、第2楽章の主題、第3楽章の主題の断片が次々
とあらわれては否定され、最後に歓喜の主題が低弦部からあらわ
れる直前の休止のことです。このゲネラルパウゼは明らかに長く
7秒ほど静寂が続くのです。
 これは、練習のときには起こらず、本番のときに起こった現象
なのです。直前の和音が完全に消えて、歓喜の旋律があらわれる
までの自然な呼吸の発露として生じたもので、この演奏に関して
はきわめて効果的であったといえます。
 3人の指揮者の中で最年長者は、もちろん小澤征爾の66歳で
す。既に述べたように、オザワにはベートーヴェンの交響曲全集
がまだないのですが、今回の「第九」の録音によって、サイトウ
・キネン・オーケストラによる全集が完成したことになります。
 サイトウ・キネン・オーケストラによるベートーヴェンの交響
曲チクルスは、1993年の交響曲第7番からスタートし、今年
の「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」における「第九」
で遂に完結したのです。
 オザワの「第九」は、基本的には佐渡の「第九」に通じるもの
があります。佐渡が指揮している新日本フィルハーモニー交響楽
団は、オザワの育てたオーケストラであり、当然といえば当然の
ことです。
 しかし、そうはいっても佐渡の演奏には良い意味での「若さ」
があり、オザワの演奏には年齢による「渋さ」を感じます。演奏
は、不自然な誇張感を徹底して排除し、あくまでも響きの美しさ
とアンサンブルとしての緻密さを背景に、作品に盛り込まれたメ
ッセージを高らかに、熱く歌い上げた質の高い「第九」として仕
上がっています。
 ちなみに「ライブ録音」といっても、コンサートで演奏したま
まをCD化するのではないのです。オザワの演奏にしても、特定
の部分を録音する「セッション録音」を何度かやっています。ラ
イブ録音部分を中心として、それにセッション録音部分を編集し
てCDを完成するのです。
 3番目の「第九」は、サイモン・ラトル指揮によるウィーン・
フィルハーモニー管弦楽団の演奏です。サイモン・ラトルは47
歳の現在最も注目されている英国の指揮者であり、2002年9
月7日にベルリン・フィルの首席指揮者(芸術監督)に就任した
ばかりの新しい「ベルリンの顔」ともいうべき存在です。
 ラトルの「第九」は、佐渡やオザワの「第九」とは、全く異質
の「第九」になっています。この「第九」は、2002年の5月
12日と14日の両日、ウィーンのムジークフェラインザールで
ライブ録音されています。
 ここ数年にわたりラトルは、ウィーン・フィルの方から申し出
のあったといわれるベートーヴェンの交響曲全集の録音をやって
きており、この「第九」ですべて完結したことになります。
 とにかく、ウィーン・フィルのラトルに対する熱の入れ方は大
変なものであり、絶対に置かないという慣例を破って首席指揮者
として迎えようかという検討まで行ったといわれているのです。
 ラトルは、ベートーヴェンの交響曲全集の録音に当って、ウィ
ーン・フィルにベートーヴェンの演奏方法を変えるよう説得して
います。そういうこともあって、ラトルの「第九」は、非常に表
情の濃厚な「第九」として仕上がっています。その解釈にしても
響きにしても佐渡やオザワの「第九」とは一線を画す新しい「第
九」の顔が見えます。
 とくに第3楽章について音楽評論家の小石忠男氏は「この楽章
の最高の名演のひとつ」と折り紙をつけています。第4楽章につ
いても、ラトルが手塩にかけて育てたバーミンガム市交響合唱団
の合唱が際立っており、力に満ち溢れた名演となっています。
 これら3つの「第九」は、それぞれに個性があり、とくに佐渡
とオザワの「第九」のあと、ラトルの「第九」を聴くと、その違
いがとてもよくわかります。    −− [小沢征爾論/09]

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